神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

古書鎌田から浦西和彦宛葉書が挟まった研究紀要を色々

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昨年12月大阪古書会館の全大阪古書ブックフェアでは全品300円の古書鎌田へ一番乗り。ガハハとあれこれ抱え込んでいたら、後から来られた某先生に「これいいでしょう」と見せられる。表紙に「天眠」とあるではないか。ガーン、珍しそうな小林天眠関係の資料か。しかも、セットなのか、鎌田さんの入れ間違いなのか2冊入っているらしい。せっかく、一番乗りしたのにそんないい物を取られるとは(´・_・`)
翌日も鎌田文庫をあさっていると、店主に「こんなのがありますよ」と教えられる。関西大学国文学会発行の『国文学』などの研究紀要である。前日からあった物で、300円でも紀要はいらんなあと思ったら、浦西和彦旧蔵で浦西宛書簡が挟まっているものもあるらしい。それは全然気付いていなかったと慌てて確保。写真は『国文学』53号,昭和51年12月。「実際は(昭和五十二年二月二十一日発行)」とあり、相当発行が遅れたようだ。当時関西大学文学部講師の浦西は「宮本百合子全集逸文について」を寄稿。宮本の逸文の紹介のほか、従来の研究や作品集の杜撰さを指弾している。特に傑作だったのは、昭和27年の全集で初めて収録された「作品と生活のこと」について、同全集の解題に「本巻にはじめて収録」とあるのを、後発の河出書房の選集(昭和31年)や新日本出版社の選集(昭和39年)がそのままコピペして解題で「本巻にはじめて収録」としているという指摘である。笑ってしまういい加減さである。
挟まっていた葉書は、紅野敏郎小田切秀雄、関良一からで、抜刷送付への御礼である。小田切からは、浦西の寄稿には驚くことばかりということと、筑摩書房に『葉山嘉樹全集』の重版を申し入れに行くが、その件で谷沢(永一)と共に会いたいというものである。紅野からは、「あなたのしぶとい追求の(これが研究者にとっては普通ですが)しかた、これあるカナと思い入りました」と絶賛されている。早稲田大学教育学部教授だった紅野の反響は特に嬉しかっただろうなあ。

水田紀久先生旧蔵の塩田良平『妻の記』で知った塩田と宮武外骨の関係に驚いた

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「古本は迷ったら買い」とよく言われる。もっとも、真に受けて何千円、何万円もする本を迷う度に買っていたら破産してしまう。しかし、100円均一とか200円均一の場合は、「迷ったら買い」の鉄則を実行してもよいだろう。昨年下鴨納涼古本まつりの福田屋書店の200円均一コーナーで見つけた塩田良平『妻の記』(現代文藝社、昭和32年12月3版)も迷ったが、買っておいて良かった1冊。この時の福田屋の均一コーナーは、故水田紀久先生の旧蔵書が放出され、大人気であった。本書も水田先生の旧蔵書である。函が壊れているし、タイトルも「妻の記」という食指の動かないものであったが、挟まれていた平成21年10月2日付け消印の水田先生宛の葉書に「本書を図書館のリサイクルコーナーで見つけたが野間光辰が出てくるのでお会いした時に差し上げます」とあって、面白そうだと拾っておいた。
長らく積ん読本であった本書をつらつら読んでいたら、驚くべき発見が幾つかあった。買っておいて良かった。「少年行」に宮武外骨が出てくるのだ。

(略)前記の吉田氏*1を通して、宮武外骨氏の助手となつて明治奇聞史を編纂することになつた。行きつけてゐた図書館に、今度はちやんとした目的を以て一週三回ばかり通つた。明治時代の重要な珍奇な新聞記事を書きぬいて一種の文化史をつくるのであつた。これは遂に出版されずに終つたが、明治文庫で編纂した新聞集成明治編年史は、私に課せられたこの奇聞史を組織化したものといつてよかろう。
(略)
夏休中私は外骨氏の明治奇聞史の仕事に没頭してそれを仕上げた。八月三十一日に私は櫻木町の翁の家を訪ねてその報酬を貰つた。七八十円は貰つたのではないかと思ふ。しかし私は未だ私の実力は全部を頂く資格はありませんからといつてその半分を返した。翁はニコ/\笑ひながら素直に引こめてくれた。私はうれしかつた。(略)

塩田は大正12年4月東京帝国大学文学部国文学科選科入学*2。入学して間もなく、外骨の助手をしていたとは。木本至『評傳宮武外骨』(社会思想社、昭和59年10月)にもこのような記述はない。塩田は「出版されずに終わった」と書いているが、外骨は『明治奇聞』第1篇(半狂堂、大正14年1月)を刊行しているので、塩田の集めた情報は多少使われたかもしれない。戦後二松学舎大学学長や日本近代文学館館長を務めた塩田が外骨の助手をしていたとは驚きですね。

*1:塩田が通った東京高等工業学校(現東京工業大学)の先輩の吉田九郎

*2:Wikipediaには大正15年卒とあるが、『東京帝国大学一覧 従大正十五年至昭和二年』によれば、昭和2年3月卒

PR誌『本の旅人』(KADOKAWA)も休刊

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ADOKAWA発行のPR誌『本の旅人』が7月号(25巻7号、通巻285号)で休刊となった。創刊は平成7年11月。出版社の紙のPR誌がどんどん減って行く寂しい状況である。最後まで残るのは岩波書店の『図書』と新潮社の『波』であろうか。『本の旅人』は萩尾望都グーグーだって猫である」を連載していた頃は、よく読んでいた。「「グーグーだって猫である」だって終わるのである」を参照されたい。もう一つ良かったのは、巻頭エッセイ。たとえば、平成29年6月号は山尾悠子「倉敷・蟲文庫への通い始め」。山尾氏はそれまでも店に立ち寄ったことはあるが、新装復刊された歌集『角砂糖の日』をかなり引き受けてもらい、更にちくま文庫の『夢の遠近法』『ラピスラズリ』も扱われて以来、蟲文庫通いが始まったという。蟲文庫通いはその後も続いているようだ。もっとも、今蟲文庫は店主が骨折のため休店中で、そろそろ再開しそうだ。
休刊号の巻頭エッセイは、編集長の小林順氏が執筆。学生時代遊びに行った友人の家で父親から「将来何になりたいの」と聞かれ、「詩人か旅人になりたい」と答えたという。その後、角川書店で書籍編集兼『本の旅人』スタッフとして働き、やがて編集長になった時に「詩人にはなれなかったけれど、これで旅人になれたかもしれない」と思ったと。自分の代で休刊になるというのは悔しい思いもあるだろうが、新たな航海での活躍を期待しよう。
なお、連載の梯久美子「サガレン紀行」は『小説野性時代』へ、酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」は『カドブンノベル』創刊号(電子雑誌)へ、原武史「地形の思想史」は『小説野性時代』へ移るなど、他誌へ継続される。

兵庫古書会館の均一台で見つけた『新家庭臨時増刊 山水巡礼』に水島爾保布

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ナンダロウさんが6月21日の『新潟日報おとなプラス』に画家水島爾保布(みずしま・におう)に関する記事を書いたらしいので、読みたいと思っていた。しかし、地元以外では国会図書館ぐらいにしか無いだろうなあとくさっていたら、何と記事にも登場するかわじ氏が送ってくださった。ありがとうございます<(_ _)>記事は、戦時中に燕市疎開し、戦後長岡に移住した爾保布の晩年を探究したもの。爾保布は長岡の東山油田へ来た時に芸妓関川スイと知り合い、東京で同居するようになり、昭和18年燕市疎開。その後移った長岡には爾保布の蔵書、落款、日記、作品、更には南方熊楠谷崎潤一郎竹久夢二などからの手紙が多く残っているという。この記事がきっかけとなり展覧会が開催されたり、研究*1が促進されてほしいものである。
私もかわじさんの『水島爾保布 著作書誌・探索日誌』(杉並けやき出版、平成11年6月)に刺激を受け、妻の婦人記者水島幸子、長男でSF作家の今日泊亜蘭と併せて何度か話題にしたことがある。
・「『『食道楽』の人 村井弦斎』余話(その6)
・「戦時下に迷惑な武林無想庵一家
・「『婦人画報』記者列伝(その2)
・「黒岩比佐子『古書の森逍遥』(工作舎)への補足(その4)
・「今日泊亜蘭の祖父水島慎次郎
・「「東京の女」、水島幸子
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さて、私とは相性が悪い兵庫古書会館だが、何年か前に100円均一コーナーで爾保布が扉絵を描いたり、寄稿している『新家庭臨時増刊 山水巡礼』(玄文社、大正9年7月)を100円均一で拾ったことがある。爾保布の他にも、表紙が川端龍子、寄稿が吉井勇田山花袋志賀直哉島崎藤村泉鏡花、中澤弘光、松崎天民菊池寛など豪華である。爾保布は「十津川下り」と「各地で見た盆踊」を執筆しており、後者にはちょうど、

越後はどこも盆踊は盛んです。長岡市から一寸離れた信濃川沿岸の蔵王といふ所で見た踊などは特に驚くべきもので、集まつた人の数だけでも二百乃至二百数十人位はありました。

云々という一節もある。この時に関川スイと出会ったわけではないだろうが、美人が多い町という印象を持ったのかもしれない。
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*1:最近では、ネットで読める桐原浩「水島爾保布ビアズリーーー行樹社と『モザイク』を中心に」『新潟県万代島美術館研究紀要』16号,平成29年3月

もう一人の満鉄調査屋流転ーー『印度資源論』の真の訳者に迫る検印の謎ー

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なんか知らんうちに小林昌樹編・解説『満鉄調査部から国会図書館へーー調査屋流転』(金沢文圃閣)なる本が出てた。戦前満鉄の調査マンで戦後国会図書館の調査及び立法考査局長や副館長を務めた枝吉勇の自伝『調査屋流転』と併せて国会図書館職員名簿などの復刻である。小林氏作の「枝吉勇著作年譜」に挙がっていないが、枝吉の「照丸君との因縁」を収録した井上照丸追憶記刊行会編『井上照丸追憶記』(昭和44年4月)は「昭和17年8月シンガポールで交錯したジャワ派遣の大木惇夫と日米交換船の鶴見和子・俊輔」で紹介したところである。井上も満鉄の調査マンで『調査屋流転』には、

この井上君とは不思議な縁で昭和八年東京で知り合ってから、北京、東京(彼は企画院に派遣された)、シンガポール(総軍)そして空襲中の東京と行く先々で一緒になり、戦後も職場も近く時折共に焼酎を味った。

など、何回か出てくる。シンガポール、空襲中及び戦後の出会いについては、井上の日記に出てくるが、ここではシンガポール時代について引用しておこう。

(昭和十七年)
十二月一日 火曜
午後四時半帰宅。五時前、突然枝吉の電話。センバワン飛行場に着いているーーとうとう枝吉が来た。ほんととは思われない彼の声だ。富軍政部二木氏に出迎え方を依頼し、読売岩村氏にカーを借りて飛行場へ行く。枝吉は白髪がふえた。三品頼忠と海野竜眠が一緒、吉田(稲葉四郎の弟)も。こうして満鉄の連中が出て来たーー
(略)富、岡調査部(岡は総軍、富は山下兵団の呼称)合同の歓迎会になった。
(略)
十二月十五日 火曜
(略)押川次長、水谷調査役への短信ーー渡南十ヵ月の苦渋の後に、こうして枝吉等を迎え、満鉄自体がいわば背水の陣といった形で、南方軍政調査の大陸部門をほとんど全部受持っている事実の大きさーーしかも本部はほとんど仮死に近い窮地に陥っている現状*1。感傷的な手紙になって、幾度も書き改む。(略)夜は枝吉と二人、南都ホテルで会食。調査部の事情をくわしく聴く。(略)
(昭和十八年)
一月二十日 水曜
(略)
月のよい夜、枝吉の宿舎を訪ね、”戦争の将来“を語る。こうしてここに在る事実ーー事実は尊重するが、これで見通しある行動が生れるわけでもない。経済調査会以後の歴史も思いあわさる。役人三年、もう好加減に足を洗うべきであろうか。

この昭和17年は重要な年である。小生第四郎(こいけ・だいしろう)訳『印度資源論』(聖紀書房)の真の訳者を小谷汪之『「大東亜戦争」期出版異聞』(岩波書店、平成25年7月)は枝吉とし、書物蔵氏は山川均と荒畑寒村の共訳としている*2が、同書の発行が昭和17年12月10日なのである。書物蔵氏の推測の方が正しそうなので、枝吉は『印度資源論』なんていう本が刊行されたことなど知らずに井上と思い出話や戦局について語っていたことになる。
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ところで、小谷氏も書物蔵氏も解き残した謎がある。『印度資源論』に押された検印である。これが解けたら「真の訳者」が判明するかもしれない。小谷氏は「右側の「姓」の部分はなかなか判読しにくいが、左側の「名」の部分には「清」という文字が読み取れる」としている。1字目が姓とは限らないが、蔵書印さんは読めるだろうか。

*1:昭和17年9月第一次満鉄調査部事件が起きた。

*2:「真相はかうだ!藤岡淳吉の日本焚書は片隅で/『印度資源論』のホンタウの訳者は」『文献継承』23号,平成25年10月

大阪府立中央図書館国際児童文学館で精文館が発行した「幻の児童雑誌『カシコイ』」展開催中

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かつて北村宇之松(宇宙)が創立した精文館という出版社が存在した。『日本児童文学大事典』に一応立項されているので、そこから要約すると、

精文館 せいぶんかんしょてん
大正3年北村宇宙が神田神保町1丁目に創業した出版社。奈良生まれの北村が大阪の積善館で8年間修行後上京して創立。同社での経験を生かし、処女出版に村田素堂『カナの習字本』を出し、以後各種参考書を中心に刊行し、児童書では木村小舟の童話集『教育お伽はなし草』(大正7年)が特に知られ、月刊誌『カシコイ一年小学生』、『カシコイ二年小学生』を昭和7年に創刊。しかし、長くは続かなかった。(亀谷真弓)

この精文館が発行した学年別児童雑誌『カシコイ』に関する展覧会が大阪府立中央図書館国際児童文学館で今月30日(日)まで開催中である。昨年末から今年3月にかけて京都国際マンガミュージアムでも同種の展覧会が開催されたが、出品物は異なっている。
展覧会のきっかけは、京都新聞記者行司千絵氏による祖母の家での発見である。行司氏の祖父藤本卯一は北村の従兄弟で、精文館で編集に携わっていたのだ。詳しくは、『図書』平成30年11月号及び12月号に同氏による「精文館と児童誌『カシコイ』を探して」(上・下)が掲載されているので、見られたい。私が国際児童文学館に行った時は当該『図書』が若干置いてあったので、まだもらえるかもしれない。『カシコイ』は、童謡顧問北原白秋、童話顧問浜田広介、童画顧問初山滋、作曲顧問藤井清水だったというからそのレベルの高さがうかがわれる。また、新美南吉の「アメダマ」など5作品、浜田の代表作「泣いた赤おに」、白秋の「アマダレ」や小川未明「花とあかり」の初出誌でもあるという。
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国際児童文学館における展示の目玉は、北村の次女の家で発見された保存状態のよい原画で、田原利一、初山滋、前島トモ、鈴木寿雄、越智はじめ、池上重雄、黒崎義介の物が出品されている。掲載誌が判明している分は原画と該当頁とが並べて展示されていて、一興である。残り極僅かの会期だが、お近くの方は是非行かれたい。

三密堂書店の100円均一台で易者神山五黄の正体を掴むーー宮武外骨の仲人神山五黄とはーー

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易学書の専門店である京都の三密堂書店の100円均一台は昔から古本者がよく立ち寄るスポットである。水明洞無き現在、林哲夫画伯や扉野良人氏がいいものを拾ったという場合大抵三密堂だろう。さて、先日藤本一恵『東山五十年』(昭和53年3月)という私家版211頁の本を見つけた。著者は、明治45年和歌山県生、戦前は京都女子専門学校教授、戦後は京都女子大学教授兼京都女子大学短期大学部教授を務めた国文学者である。本書は藤本の退任記念に『女子大国文』『国文学学会会報』等に掲載した随想等を集めたものである。この中に神山五黄という易学者が出てきた。先ずは、会報から転載された藤本の元同僚千田憲「波の淡路」(『国文学会会報』30号,昭和40年2月)である。

(略)或る夜、五高以来の友人、神山五黄が細君帯同でやって来た(略)その細君は、金沢出身で、京都で、義太夫を語って高座の真打ちを務めた事もあり、京大ドイツ文学科の学生、神山と、芸が取り持つ、恋愛結婚の大あつあつの夫婦なのである。(略)

続いて、藤本の「波の淡路余録」(同号)。

(略)
千田先生五高以来のご親友、神山五黄先生には、ひよんなことで二度ばかり面謁した。昭和二十三年麦秋(略)京大ドイツ文学科出のインテリ陰陽師というに引かれ、浄土寺馬場町の五黄先生の門を叩いたのであった。ぜい竹を徐ろにさばいての先生の予言は九分通り的中した。

京大独文卒の易者がいたのかと驚いた。五高、東京帝大、京都帝大各一覧、国会図書館サーチ、木本至『評傳宮武外骨』(社会思想社、昭和59年10月)などで判明したことをまとめると、

神山義次(五黄)
明治? 岐阜県
明治41年6月 『龍南会雑誌』(龍南会)に千田憲らと共に「就任之辞」を掲載
明治42年7月 第五高等学校第一部独語文科卒。同級に千田(英語文科)
同年9月 東京帝国大学文科大学文学科入学
大正4年9月 京都帝国大学文科大学文学科入学
大正7年7月 京都帝国大学文科大学独文学専攻卒。同級に矢野禾積(英文学専攻)
大正7年11月8日 東京朝日新聞に鑑定料一円の広告
大正8年12月 『今年の運勢 大正九年』(発行文武堂書店、編纂所神山易断所)刊行
大正10年1月 『恋愛』(日本性学会)1巻1号に「男女和合の霊薬」掲載
戦時中 京都に疎開

京大卒業後直ぐに鑑定を始めていたことが分かる。『易占入門』(大明堂書店、昭和24年4月)には、「大学卒業後、周囲の猛然なる反対を押し切つて、易占家として世に立ち」とあるので、京大独文卒なのに・・・という意見が多かったのだろう。東大から京大に移っているが、東大の卒業は確認できない。なぜ京大に入り直したのだろう。
木本著によると、大正15年4月宮武外骨と小清水マチの結婚の仲人をしたという。斎藤昌三が『三十六人の好色家』等で仲人を西垣某としているが、横田謙三郎所蔵の同書に三田平凡寺による仲人は神山五黄という易者との書き込みがあるという。神山は趣味人のネットワークに属した人だったのかもしれない。そんな神山の悲しい最期が木本著に記されている。

自殺したマチ女と外骨の結婚の仲人をつとめた易者の神山五黄が二十五年夏に京都で人生を閉じている。「神山先生は自宅前の白川に架かる馬場橋で死のうとしたが、人目があって死ねず、自宅の手摺に紐を懸け首を吊って死にはった。私の離婚を当てたが、ご自分の運命がわからなかった」と隣家の女主人は語る。(略)

(参考)「宮武外骨の妻を寝取った松井史亨

評伝 宮武外骨

評伝 宮武外骨