神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

池袋の自由学園が不自由だった時代の『学園新聞』

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池袋の自由学園明日館へ行ったのは、もう15年以上前のことである。池袋の魔窟古書ますく堂はまだ存在しなかった。有料で案内してくれるが、しばらく「婦人之友社展示室」で待機した気がする。明日館はフランク・ロイド・ライトの設計した建物で、ホールが印象的で記憶に残っている。
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秋田雨雀日記』(未来社、昭和41年2月)に自由学園が出てくるので一部紹介しよう。

(昭和十年)
十一月三日
(略)自由学園デンマーク体操の会へゆく。南沢はすてきなところだ。ヴァレーの上に美しいライト式(遠藤技師*1)な学校がたっていた。デンマークへいってきた二人の女(卒業生)が指導していた。在郷軍人が野次っていたから怒ってやった。(略)
(昭和十二年)
十二月十二日
(略)午前十時ごろに池袋駅から南沢の自由学園へゆく。また先住民族の住居趾を見た。蘆花会でよくあう吉沢(?)という人にあった。この人の娘さんも自由学園をでたのだそうだ。(略)食堂で食事をしながら、ミスタ、ミセス両羽仁のお話をきいた。財部海軍大将が札幌農学校の教育精神について話していたが、建物の関係か、よく聞えなかった。食事後、講堂で「君が代」合唱、「青い鳥」の英語対話(幸福の国)「アブラハム・リンカーン」(南北戦争当時のグラントとリー将軍の対面)らがあり、学生の日誌朗読の後に「タンホイザー」の演奏があった。なかなか立派なできだった。コンダクターは相当な勝れた人だった。また食堂でお茶をのんだ。(略)

自由学園羽仁もと子と夫吉一により大正10年創立された。上記のような自由な雰囲気があった自由学園にも戦時下という不自由な時代がやってくる。手元に昨年2月京都古書会館の古本市で入手した『学園新聞』(自由学園学園新聞発行所)がある。シルヴァン書房出品。シルヴァン書房の紙もので大きいのは、戦前の地図や双六など私の関心外の分野の物でしかも値段が高いので黙殺することが多いが、この時は「大正10年新京極に誕生した京都美術館という名の画廊 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『美術館誌』(京都美術館、大正10年3月)など大当たりであった。入手したのは、158号(昭和18年10月30日)*2から161号(昭和19年5月30日)までである。特に女子部の生徒が大日本兵器の工場、中島飛行機の製作所、中島航空金属の工場で挺身隊として働く記事が目を引く。自由学園も自由でない時代となり、『学園新聞』も同号には次のような案内が載った。

本紙廃刊につき
時局の要請によつて学校関係の定期刊行物はすべて廃刊することゝなりましたので、我が学園新聞も本号を以て廃刊いたします。
(略)

*1:ライトの弟子で講堂(昭和2年竣工)を設計した遠藤新

*2:159号(昭和18年11月30日)は「158号」と誤植している。