神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

山根徳太郎の書簡で見る大正7年以降の月遅れ雑誌の取扱い

大阪歴史博物館*1の常設展示室の一角に難波宮大極殿跡の発見者山根徳太郎のコーナーがある。その山根が妻きよに送った手紙が、『相聞記』(山根徳太郎先生顕彰会、平成3年12月)として刊行されている。「カフェープランタンで天狗倶楽部と喧嘩した永井荷風」や「大正6年1月京都府立図書館でラブレターを書く土田杏村」で土田杏村が後に妻となる女性に送った手紙をまとめた『妻に與へた土田杏村の手紙』(第一書房昭和16年12月)を紹介したが、『相聞記』の濱田百合子(山根の長女)「相聞記補遺」で父の畏友土田杏村にも『妻に與へた土田杏村の手紙』という本があると言及していた。意図したわけではないが、山根と土田は畏友であったか。
さて、人のラブレターを読んでる場合ではないが、山根の大正7年2月7日付け書簡に出版史ネタがあった。以下長文を紹介する。なお、わかりにくいが、「いや先頃」から「ない雑誌が御座います。」までも問屋の発言である。

それで本題の雑誌ですが、そのやうなわけで三十日の帰りがけ早速神楽坂の夜店にまゐつて雑誌店をたづねましたが、御申越の婦人の友は十月号よりないです。だん/\たづねて、それならば神田の問屋の方へいつてお願になつた方がよろしいと教えられ、ゆうべ帰路、神田の教はつた問屋に参りました。所で問屋で話しました所が、「はい、いたします。地方へ御送りいたしますですが、早うて三ヶ月おくれますが、およろしう御座いますか」といふのです。一月おくれときいてゐたがといへば、いや先頃新本屋(古本屋に対して彼等の仲間ではアラホンやといふ)の方で厳重な規約が出来て三ヶ月以後でないと拂はないことに決りました。ですから十月号なら御座いますが、それより新らしいのは御座いません。所で婦人の友は私共の店へは参りませんので、あの発行所はすぐ一貫目いくらで屑屋に拂ふことになつてゐますから夜店に出てゐるのはその屑屋から買うて参つて売つて居るので御座います。博文館ものも皆屑屋の方へ一貫目いくらで出します。ですからある雑誌とない雑誌が御座います。(略)そんなわけで御座いますから、所謂新本屋の同盟で三ヶ月おくれより早い雑誌はなくなつたわけで御座います。営利にさとい商人はきつとその屑屋をあさつてあらゆる種類の雑誌をあつめ地方へ郵送してゐる店があるのでせうが、その店をまだよう見つけません。とにかくその三ヶ月云々の規約はつい先頃きまつたのだそうです。(略)発行所もぬけめありません。以前はその月発行のものが月の中旬から下旬にかけて夜店に出てゐたのですが、かくては皆、月おくれのを注文しますから三ヶ月云々の規則をつくつたのでせう。(略)

大正7年から夜店には原則として三ヶ月遅れの雑誌しか流れなくなったようだ。山根は当時神戸市立高等女学校教諭を休職し、東京高等師範学校研究科に入学していた。東京におけるこういう月遅れ雑誌の取扱い変更について出版史の本に書かれているだろうか。博文館の雑誌の処分については、小川菊松『出版興亡五十年』(誠光堂書店親光社、昭和28年9月)の「三四 出版街裏路の儲け話」に、

(略)少年世界、少女世界を一冊七厘、女学世界、中学世界、文芸倶楽部等を一冊壱銭二厘程度で払い下げ、その処分を浅草蔵前の上田楢次郎という人に引き受けさせたのである。同氏の長男坂東恭吉氏は、これに目をつけて、包紙とすることは勿体ないと一冊二銭五厘平均でいわゆる月遅れ雑誌として、各古本屋等に売り込んだ。大正二年ごろからの事であるが、最初は相当に成績を挙げたものの、それも月重なるとともに飽和状態となつて、処分し切れなくなつたので、窮余の結果一策を案じ、これをハコ売り*2、バサ売り*3で処分することを案出した。

とあった。

*1:余談だが、本おやさんはここのミュージアムショップでバイトをしたことがあるらしい。

*2:汽車や汽船に乗り込んで何冊か組み合わせて呼売りをすること。

*3:露店や大道で売ること

昭和15年における近江兄弟社の吉田悦蔵と近江療養院

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数年前知恩寺の青空古本まつりで竹岡書店の3冊500円コーナーで昭和15年の日記帳(寶文館)を見つけた。9月8日と10月24日から12月30日までしか書き込みがないが、北支派遣部隊の岸本某から滋賀県八幡町近江療養所[ママ]内の塚口某宛の葉書が挟まっていて誰の日記か判明することや吉田悦蔵が出てくることから購入。
日記を書いた塚口の経歴は調べても分からなかったが、タイピストだったようで入院した近江療養院(現・ヴォーリズ記念病院)にタイプライターを取り寄せて職員に指導したりしている。また、病人の割には元気で、院内でゴルフ大会をしたり、近江セールズ会社の運動会へ撮影に行ったり、近江兄弟社女学校の学芸会へ出かけたりしている。そのほか、10月30日には洗礼式に参加している。次のとおり(適宜句読点を補った)。

(略)天川政隆先生の診察有りたり。
(略)
一時より洗礼式だ。深尾銈三兄及尾崎ヨネ氏だ。終了后記念撮影有りたり。夕方よりは魚釣りだ(略)

イヴには吉田が登場する。

朝はサナトリウムのクリスマスだ。
教会の礼拝に行く。
昼は祝賀会、例年の如くに御馳走だ。夜は催しだ。
カタログ通り進捗す。
中にも兄弟社の吉田悦蔵氏がユーモア、タップリのクリスマス□□と豊富なる話題を播き散らす。
(略)

吉田は、『吉田悦蔵伝』(近江兄弟社昭和19年11月)によれば、この年数え51歳、12月11日に開館式のあった近江兄弟社図書館の館長に就任している。

大阪CIE図書館のアメリカ人館長と対立して辞めた動物学者筒井嘉隆

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これまた尚学堂で見つけた牛尾桃里画・筒井嘉隆文『ニッポンの鳥』(童画社、昭和17年11月)。表紙に破れがあって、1500円。3万部発行されているが、児童書なので残存数は意外に少ないか。国際児童文学館と三康図書館が所蔵。冒頭筒井は「お母様方に」で、

(略)興味本意の低調なものが、少年少女の科学知識をどれほど損ふか、筆者は平日動物園で沢山の例を見てきました。先づ正しい良い本に目をならす事が肝要です。

と述べている。これを執筆した時は大阪市天王寺動物園の職員で、昭和20年3月から21年2月までは園長となっている。筒井の『町人学者の博物誌』(河出書房新社、昭和62年1月)の「バードウォッチングの思い出」によると、

私は大正十三年に京大(そのころは京都帝国大学であった)の理学部動物学科に入り、大学院では生態学を専攻した。そのときの指導教授はもうなくなられた川村多実二先生であった。野鳥研究の権威であり、愛鳥家であった。

なるほど、本書の執筆には適役だったわけだ。本書では、かはせみ、つばめ、ひばりなど11種の鳥について平易な文章で解説している。ところで、前掲『町人学者の博物誌』の「博物学から自然保護へ」を見てたら、ビックラちょ。

一年足らずで、獣医中尉の前園長が除隊になって帰って来たので、園長を譲り、教育局の社会教育課に移った。(略)翌二十二年には出向して、進駐軍のSCAP CIE LIBRARY(連合軍総司令部民間情報教育局大阪図書館、今のアメリカ文化センターの前身)の創設と運営管理を担当した。文化施設に通じていて英語もわかるというのが原因であったようだ。高麗橋筋の東洋棉花KK(トーメン)の建物を接収したもので、これも二年ほどでアメリカ人の館長と意見があわないのでやめ、市役所に帰って上司を説き、二十五年の四月から自然科学博物館の創設にとりかかかった。

筒井嘉隆が大阪CIE図書館に勤めていて、しかも館長と対立して辞めていたのか。平成元年4月に亡くなっているが、生前誰か大阪CIE図書館時代のことについて訊いていないだろうか。
(参考)筒井の長男筒井康隆が家族でやっていた同人誌『NULL』については「文庫櫂で青空書房旧蔵の『NULL』創刊号を」参照

今なお大月健が遊びに来る善行堂

f:id:jyunku:20190301134021j:plainぱる出版の『日本アナキズム運動人名事典』(平成16年4月)の増補改訂版が出るようだ。この事典の「荒川畔村」「小倉清三郎」「坂本紅蓮洞」「添田亜蝉坊」「武林無想庵」「辻潤」「脇清吉」などを書いたのは大月健である。大月没後刊行された評論集『イメージとしての唯一者』(白地社平成28年4月)の略年譜から要約すると、

昭和24年2月 岡山県
昭和42年 県立賀陽高等学校卒
昭和43年 大谷大学での司書講習を受講
昭和44年 京都大学農学部図書室に、臨時職員として採用
昭和45年 京都大学農学部に本採用
平成9年4月 個人誌『唯一者』創刊
平成26年5月 永眠 

その人となりは藤原辰史氏が京都新聞平成27年4月16日の夕刊で「遊びの名手」に、「顔は日焼けして真っ黒、髭はもじゃもじゃ。シャツにジーパンに雪駄。酒と煙草と俳句をこよなく愛し、目はいつも潤んでいて、声は高く、スムーズに出てこない言葉のよどみに、誰もが彼の優しさを感じていた」と偲んでいる。今をときめく藤原先生であるが、『ナチスドイツの有機農業:「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』(柏書房、平成17年2月)の「あとがき」にも大月への謝辞を述べている。

京都大学農学部の図書室は、わたしにとって、重要な知的生産の場であった。スタッフの大月健さんには橋本傳左衛門の資料を紹介していただき、また、シンポジウムを企画するときのみならず、ダイコンやジャガイモやニンジンを学内の空き地で有機栽培するときにもお世話になった。

藤原先生に限らず、研究を支えている大学図書館の職員に感謝している研究者は多いだろう。在りし日の大月の姿は、写真であげているが善行堂に飾られている今年2月亡くなられたうらたじゅんの絵で見ることができる。善行堂には図書館からよく雪駄履きで来ていたという。多分今も時々こっそり遊びに来ているのだろう。
(参考)「旧植民地関係資料を救った大月健

イメージとしての唯一者

イメージとしての唯一者

初めて古書ますく堂で買った本は松村久『本の周辺・やまぐち考』

f:id:jyunku:20190408182541j:plain西池袋の古書ますく堂へは、数年前書物蔵氏の車に乗せてもらい行ったのであった。いわゆる本の本が割とあって、買ったのがマツノ書店の松村久が書いた『本の周辺・やまぐち考』(マツノ書店、平成13年11月)である。オリジナル・ブックカバーもいただいた。
私がマツノ書店に行ったかどうか、はっきりしない。徳山駅で途中下車して徳山市美術博物館(現・周南市美術博物館)に行ったのは間違いないし、マツノ書店に行こうとした記憶もあるので、行ったが定休日だったのかもしれない。郷土史の復刻出版社としても著名だった松村だが、昨年8月に亡くなられた。「ほんの周辺 地方出版の眼」13回には次のようにある。

「蔵書画は売却スベシ、図書館等ヘハ寄付スベカラズ。永井荷風遺書」
官憲嫌いの文人永井荷風のファンでもある私は、この言葉を、店で使う「防長方言番付」入り紙袋の一隅に印刷している。

マツノ書店の紙袋、実に見たかった。

萬年社の創刊号コレクション

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平成11年に倒産した大阪の広告代理店萬年社が所蔵していたポスター、ビデオテープ等は、「萬年社コレクション」で見ることができる。だが、所蔵していた図書類の目録は公開されていないので、全貌は不明である。ところで、「株式会社萬年社蔵書之印」が押された雑誌が大阪の市会に出たようで、恵美須町の文庫櫂で何冊か発見した。なぜか、創刊号ばかりで、萬年社が創刊号のみコレクションしていたのか、市会への出品者が創刊号だけ選んで出品したのかは不明であるが、タイトルは創刊号コレクションとしてみた。写真は、入手した『文化批判』1巻1号(文化批判社、昭和2年5月)「雑誌『文藝戦線』批判号」である。あまり著名な雑誌ではないようで、『日本近代文学大事典』5巻(新聞・雑誌)に立項されていない。平野謙『文学運動の流れのなかから』(筑摩書房、昭和44年8月)によれば、

(略)文学における福本イズムの悪しきエピゴーネンは、中野重治や鹿地亘ではなくて、昭和七年五月に<<文化批判>>を創刊したグループたちだった、というべきだろう。須田理一、武島肇、岡田五郎、水野正次、伊東隷三の五人を「編輯責任者」として、創刊号の全誌を雑誌<<文藝戦線>>批判号と銘うったこのグループこそ、まぎれもない福本イズムの亜流だった。そのうち武島肇はかつて<<戦闘文藝>>*1という雑誌を主宰した岩崎一の変名ということであり、その<<戦闘文藝>>には先ごろ芥川賞候補となった『鳩の橋』の作者小笠原忠も所属していた、という。岡田五郎は岡田三郎の実弟であって、この弟をモデルにした岡田三郎の『三月変』という小説は、今日もなお読むにたえる作品である。しかし、<<文化批判>>のグループそのものは、文学史的にはいうにたる痕跡も残さずにすぐ消滅したのである。(略)

名前の出てくる5人のうち本誌の発行編輯兼印刷人だった岡田は、『日本近代文学大事典』3巻に牧屋善三として載っているので、紹介すると、

牧屋善三 まきやぜんぞう 明治四〇・五・一七~(1907~)小説家。北海道生れ。本名岡田五郎。岡田三郎の実弟。三・一五事件に連繫して明治学院高等部中退。大宅壮一の下で『千一夜物語』の翻訳に従事。(略)

『文化批判』は、平野が言うとおりすぐに2号で廃刊になったようだ。今回、萬年社の創刊号コレクション(?)の一端が明らかになったが、リストのようなものは残っているだろうか*2

*1:『戦闘文藝』は、『日本近代文学大事典』5巻にプロレタリア文芸雑誌として立項されている。大正13年7月~14年4月発行。主宰は山本伊津雄のち岩崎一。第一早稲田高等学院グループの同人誌

*2:「萬年社コレクション」の「検索ページ」で「創刊号」を検索すると、『東洋自由新聞』創刊号(明治14年)や『美術新報』創刊号(明治30年)などがヒットする。

千田是也演じるチャペック『虫の生活』(築地小劇場)の浮浪人も絵葉書に

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村山知義の構成派の舞台装置が絵葉書になっていて、謎の人物による書き込みがあったことは「村山知義の舞台装置「朝から夜中まで」(築地小劇場)が絵葉書になっていた」で紹介した所である。実は、同一人物によると思われる文面がある絵葉書を同じく寸葉会で入手している。使用済みのためか、300円。写真をあげた絵葉書である。表面は、宛先も発信者もなく、切手も貼られていない。文面は次の通りである(適宜句読点を補った)。

此月の築地、チャペックの「虫の生活」の三幕目です。可成り露骨な風刺喜劇です。ゴーゴリの「検察官」とは違ったものですが、同じく感じることは喜劇の「難しさ」です。
舞台の中央に立ってゐるのが浮浪人に紛[ママ]した土方氏お気に入りの千田是也です。

チャペック兄弟の「虫の生活」は、大正14年4月15日から24日まで築地小劇場第26回公演として上演された。訳北村喜八、演出土方与志、舞台装置吉田謙吉。この絵葉書と同じ写真が水品春樹『築地小劇場史』(日日書房、昭和6年6月)の口絵に見られる。同劇場には金星堂書店の売店があったので、そこで絵葉書が売られていたか。村山の舞台装置の絵葉書といい、今回の絵葉書といい、発信者も相手方も演劇好き、文学好きだったようだが、どういう関係でどのようにして渡した(又は渡せなかった)のか。本ではないが、痕跡本の古沢和宏氏ならどのような物語を想像するだろうか。