神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

心斎橋のヨネツ子供服装店と三条寺町のコドモヤ洋装店

 
 大阪歴史博物館7階に心斎橋筋にあったヨネツ子供服装店が復元されている。この米津禎三が経営した子供服店は、ショーウインドーが有名であった。橋爪紳也『モダン都市の誕生:大阪の街・東京の街』(吉川弘文館、平成15年6月)*1によれば、米津は欧州外遊から帰国後、それまで大人の洋品も扱っていた店を子供服専門店に特化し、店の面積の半分ほどを奥に人を誘導する飾り窓にしたという。「ヨネツスタイル」はインテリ階級の支持を受けたようだともある。

 ヨネツの子供服で育った大阪の子供で最も著名なのが、田辺聖子である。田辺は『しんこ細工の猿や雉』(文藝春秋、昭和59年4月)の「おとなしい子に御褒美」で、空襲に遭うまでは「ええ衆(し)」だったウチ(田辺写真館)の象徴として、「ヨネツ」の子供服を着て幌なしのタクシーに乗せられて心斎橋のレストランで御飯を食べたことを挙げている。そのヨネツも空襲で焼けている。店主の米津は、『第十四版大衆人事録』(帝国秘密探偵社、昭和18年9月)によれば、明治28年3月12日生まれ、大倉高商卒。先に合名会社ヨネツ雑貨店代表だった。妻愛は明治29年生まれ。
 大阪のヨネツ子供服装店に比べると知名度はまったく無いが、京都の三条寺町東にコドモヤ洋装店があった。店主は松本茂治という。「人事興信録データベース」で検索すると第8版(昭和3年7月)がヒットする。明治23年生まれとある。私がこの店を知ったのは、数年前四天王寺の古本まつりで「古書あじあ號」から入手した『日本婦人』(日本婦人新聞社)29号,大正12年4月~33号.大正12年8月の広告であった。この京都で発行された一応「婦人雑誌」に分類される雑誌については、別途アップする予定である。その後、「古本が絵葉書を呼ぶ」?で寸葉さんからコドモヤ洋装店から十合呉服店宛の年賀状(昭和3年)を入手している。400円。子供服の専門店としてはヨネツ子供服装店の先輩に当たるコドモヤ洋装店。田辺聖子みたいに後に著名な作家となる子供に着てもらえただろうか。

*1:橋爪著は「ヨネツ子供雑貨店」と表記しているが、米津禎三の店は「ヨネツ雑貨店」から子供服の専門店化した後は「ヨネツ子供服装店」に改名している。