神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

小川一眞の写真に手彩色をする画家原憮松ー『一寸』(学藝書院)に「原撫松の日記」連載中ー


 『一寸』87号(学藝書院、令和3年12月)以降の同誌に丹尾安典氏による「原撫松の日記」が掲載されている。数年前発行者である書痴同人の一人山田俊幸氏旧蔵の『一寸』が「本おや」に出て、数冊持っている。しかし、最近の号は持っておらず、更に所蔵する図書館も限られていて、読みたいのに困ってしまった。
 ところが、知人が創刊号から最新号まで持っておられて、拝読することができた。ありがとうございます。早速読んでみると、昨年岡塚章子『帝国の写真師小川一眞』(国書刊行会)が刊行された小川一眞(おがわ・かずまさ)が出てきた。小川については、印刷博物館で11月18日~2月12日「明治のメディア王 小川一眞と写真製版」も予定されていて、タイムリーである。原の日記から小川が出てくる箇所の一部を引用しておこう。

(明治三十六年一月)
十日 晴
 午後袖岡氏来訪。小川写真店百美人展覧会のぼりの図案依頼す。承諾す。

(同年二月)
六日 晴
(略)
 鉦太子*1小川フロマイト写真着色三枚を手伝ひの依頼に来る。小川の究(*窮)状きのどくにて断りかね、諾す。三面着色料二十円也。

十三日 晴
 朝よりフロマイトを着色す。空の色にコバルト/ホワイトを用ひたる為め何となくにごりたればブルシヤンブリユーにて再三色上げせんと試みたれども却て面白からず。遂に画面洗浄を思立て白布にてぬぐひたり。然るに下張の骨現はれ遂に策の施すなく全く失敗に終りたり。
(略)

*は、丹尾氏による注

 平成9年に開催された「知られざる正統-原撫松展:伝えられた英国絵画のこころ」の図録(原撫松展実行委員会)の年譜によれば、原は慶応2年備前岡山出石村生まれ。明治17年1月京都府画学校全科を優等第1位で卒業、京都府宮津中学校・滋賀県師範学校の教員を経て、20年頃岡山に戻る。29年頃上京し、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、森村組総帥森村市左衛門など著名人から肖像画を依頼されたという。
 日記明治36年1月10日の条の「百美人展覧会」は、同年3月3日付け『読売新聞』朝刊によれば、上野公園第5号館で同月1日から開催された。小川撮影の東京百美人を縦3尺5寸、横2尺5寸の掛額で展示したものである(追記:岡塚著の年譜に記載がある大阪で同年3月1日~7月31日開催された第5回内国勧業博覧会における「百美人写真展」の方かもしれない。)。
 また、2月6日・13日の条に記載された小川撮影の写真への原による手彩色が面白い。どういう人が手彩色を描いていたのか考えたことはなく、名のある画家が行った場合もあるとは面白い。しかし、原は結局失敗していて手彩色も難しいものである。

*1:丹尾氏による明治36年1月1日の条への注によれば、銀座の額縁店「八咫屋」主人の岩松鉦太