神保町系オタオタ日記

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大正14年川喜田半泥子が句誌『はま荻』創刊号に寄せた「千歳山荘より」ー川喜田半泥子没後60年記念にー


 今年が川喜田半泥子の没後60年ということで、三重県津市の石水博物館で 記念特別展「川喜田半泥子の俳句と轆轤ー秋風のふくよろくろのまわるままー」が開催される。会期は、9月9日から11月12日まで。チラシを入手していないので、冒頭の写真には平成30年12月から31年2月まで開催された「若き日の川喜田半泥子ー陶芸を始めるまでー」をあげた。
 『川喜田半泥子物語:その芸術的生涯』(朝日新聞社あべのハルカス美術館平成26年11月)の略年譜によれば、半泥子は大正12年梶島一藻主宰の俳誌『鳰(かいつむり)』の同人になっている。また、大正14年4月には蒲郡の窯で初めて轆轤を教えられ《古伊賀写赤楽花人》を作り、同年12月長江寿泉の指導により初窯を焚いている。この時期に半泥子が寄稿した句誌を入手したので紹介しておこう。
 阪神古書ノ市で真っ先に張りついたモズブックスの雑誌箱で見つけた『はま荻』創刊号(はま荻社、大正14年12月)である。発行兼編輯人は津市の青木栄之。半泥子「千歳山荘より」が掲載されていたので、購入。20頁、千円。国会図書館サーチや三重県内図書館横断検索でヒットしないので、相当貴重な雑誌である。前記年譜によれば、半泥子は大正4年12月に津市分部町の旧宅から郊外の千歳山荘に移っていた。
 寄稿の内容は、自作3句の紹介である。一部を要約すると、
・筆洗の水流す池や若八ツ手
 春に月斗先生が山荘で画をかいた時に、絵具筆を洗った筆洗の水を泉水へ何心なく流すと色々の色で澄み切った水が彩られた時の感興を句にしたものだという。「月斗先生」は、青木月斗だろう。千早耿一郎『おれはろくろのまわるまま:評伝・川喜田半泥子』(日本経済新聞社、昭和63年6月)272頁によれば、「青木月斗が津に来たとき、岩津海三郎が俳句の雅号をつけてくれ、と半泥子に言ってきた」とある。
・長き夜やうらしろの猿とばし見つ
 林若樹が山荘の客となり毎日古書画と反古に埋もりながら雑談にふけった。気がつまると庭を歩き、子供を連れて下の谷へ行くと子供が裏白を切り取り猿をこしらえ、若樹が珍しがった。その晩その猿を画にかくやら、子供と一所に飛ばしっこをして楽しんだのを日記につけた句だという。林若樹ら集古会のメンバーとの関係については、千早著や山口昌男内田魯庵山脈:〈失われた日本人〉発掘』(晶文社、平成13年1月)に若干記述がある。ただし、どちらも半泥子が集古会の同人になった時期を大正5年頃としてしまっている。しかし、『集古会誌』庚戌巻2(集古会、明治44年1月)の「会員名簿」に「川喜田久太夫」として出ている。
 随分貴重な雑誌なので、石水博物館が必要であれば貸してあげようかな。