神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都新聞の美術記者になっていた朝鮮創作版画会同人多田毅三ーーデジコレで辻千春『空白の美術史』(中日新聞社)へ補足ー


 辻千春『空白の美術史:植民地下「朝鮮」で見る創作版画』(中日新聞社、令和2年2月)を借りてきた。借りてきたが、これは買っておいた方が良さそうである。目次を挙げておく。

 「第一章 日本人美術家による京城における創作版画の展開」に多田毅三という新聞記者が出てくる。生没年は不明で、大正10年前後に長崎から朝鮮へ移住したと推察され、京城日報の美術記者を務める一方、朝鮮芸術雑誌『朝』(大正15年)や『ゲラ』(昭和3年)の創刊、朝鮮創作版画会の創立(昭和4年)に主体的役割を果たした。しかし、昭和9年には朝鮮から大阪に移り、11年大阪毎日新聞社学芸部見習員、12年画観社関西支社長就任などしか確認できないとされる。
 辻著の刊行後、国会図書館デジタルコレクションの全文検索が大幅に拡大された。デジコレで「多田毅三」を検索すると、『人事調査録』(人事調査録刊行会、昭和10年12月)の「浦田芳朗」の項がヒットする。浦田は明治23年長崎県浦田毅の長男として生まれ、大阪毎日新聞営業局印刷部長である。そして、なお書に多田が実弟として登場する。多田は明治30年生で、「画家にして嘗て京城日報社美術記者を勤[ママ]め朝鮮美術展覧会の創設並に朝鮮美術界に尽すところ多く、現在大毎学芸部美術記者にして兵庫県武庫郡鳴尾村に住む」とある。これにより、生年が判明した。『人事調査録』は通常使わない紳士録だし、仮に目次を見たとしても多田名では立項されていないので、デジコレが無ければ到達するのは不可能である。デジコレ、畏るべし。
 そして、『現代美術家総覧:昭和19年』(美術年鑑社、昭和19年3月)もヒットする。多田について、「京城日報、大毎、京都新聞各美術部員」とある。驚いたことに、京都新聞の美術記者になっていたのだ。京都新聞の樺山聡記者の出番かも。
 デジコレでは、国会図書館内限定も含めて、まだ注目すべき記載のありそうな文献がヒットする。しかし、おそらく辻先生も既にデジコレで調査済であろうから、これくらいに留めておこう。あらためて、デジコレの革命的な威力を味わうことができた。