神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

東本願寺南方美術調査隊写真班の野村直太郎とインドの詩聖タゴールーー花園大学図書館で発見された写真の撮影者野村直太郎の経歴(補足)ーー

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 1月7日の朝日新聞夕刊にも、花園大学図書館で発見された東本願寺南方美術調査隊が撮影したアンコールワット遺跡の写真に関する記事(久保智祥記者)が掲載された。大澤広嗣先生のコメントも載っている。その大澤先生が調査隊について書かれた「アンコール遺跡と東本願寺南方美術調査隊」『仏教をめぐる日本と東南アジア地域』(勉誠出版平成28年3月)には、調査隊の隊長杉本哲郎のほか、各班の班員名が載っていて、写真班は野村直太郎、野村雄直、野村祐庸である。写真班の名字が3人とも「野村」であるのは、野村直太郎の一家ではないかと推測できる。この推測は、「日本の古本屋」に山星書店が『アンコール・ワット仏教遺跡拓本集百葉の内』を出品している情報に「野村直太郎親子拓」とあることから、正しそうである。
 野村の経歴については、「花園大学図書館で発見された東本願寺南方美術調査隊によるアンコールワット写真の撮影者野村直太郎の経歴ーー萩原朔太郎や恩地孝四郎を撮影していた写真師野村直太郎とはーー - 神保町系オタオタ日記」で私が調べたことをまとめてある。あらためて、従来判明していた昭和61年頃滋賀県甲賀で開催された「アンコールワット展」(甲賀文化協会主催)のパンフレットに掲載された経歴を要約しておこう*1

チェコスロバキア生まれ(生年不明)
プラーグ大学で写真を研究
来日してから東京美術大学で教鞭を執る。
北原白秋らと共に詩作
ヨーロッパ、トルコ、シンガポール、ネパールやカンボジアなど半生を外国で過ごす。
特にインドでは、タゴール邸で生活する。
戦後、同志社女子大学*2講師や京都大学理学室写真主任などを経て、奈良に国際美術学校を創設
没年不明

 「東京美術大学」は、正しくは「東京美術学校」である。ただし、国会図書館デジコレで読める『東京美術学校一覧』では教員とは確認できなかった。また、グーグルブックスで「野村直太郎 写真」を検索すると、同志社総長だった大塚節治の『回顧七十七年』(同朋舎、昭和52年7月)がヒットする。同書に「写真家野村直太郎氏」が出てくるようなので、同志社と何らかの関係はあったようだ。「京都大学理学室写真主任」は、京都大学大学文書館で確認できるだろうか。
 タゴールとの接触は、その後入手した『随筆四季』第2輯(ウスヰ書房、昭和16年8月)で確認できた。口絵(印度カリーケーブ石窟・印度中産階級の母と子)と「印度随想」を掲載。後者掲載のタゴールとの写真を冒頭に挙げた。同随想の末尾には「(筆写・写真芸術家・世界旅行者)」とある。また、同誌の「後記」(臼井喜之介)には、「印度は今や我々の注視の焦点にある。印度旅行家、野村氏の紀行はさういふ意味から特に請うて載せた」とあり、野村と臼井が親しかったことがうかがえる。そうなると『随筆四季』他の号が気になるところである。日本近代文学館が第1輯、昭和16年5月~第3号、同年10月を所蔵しているものの、「ざっさくプラス」には未収録。機会があれば、閲覧に行かねば。
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 野村の経歴は、やはり難問のようだ。最近話題の「次世代デジタルライブラリー」でも新しい情報は得られなかった。また、恩地孝四郎と親しかったようなので、桑原規子『恩地孝四郎研究:版画のモダニズム』(せりか書房平成24年10月)を見てみた。しかし、『書窓』1巻3号、昭和10年6月に野村の肖像写真が掲載されているという情報のほか、

野村は「ロシアで修業してきたといふ変り種」で、「営業写真家ではあつたが営業写真家としては成立てなかつた」人物というが、経歴については何もわからない。

とあった。恩地の研究者にも謎の人物のようだ。引き続き要調査である。
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*1:令和元年5月に京都市岡崎の風工房で開催された「アンコールワット レリーフ拓本展」のチラシからの孫引き

*2:京都新聞令和元年5月23日朝刊の記事では、同志社大学