神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

竹久夢二を語る兼常清佐と小林源太郎

『音楽』(東京音楽学校学友会、大正5年8月)。水の都の古本展でモズブックスから購入。表紙の破れを補修した跡があって、1,000円もするので迷ったが、小林生・兼常生「夢二問答」が載っているので購入。音楽の雑誌に竹久夢二に関する対談が載っているのが面白そうであった。
調べてみると、「兼常生」は兼常清佐。この頃の兼常は、『兼常清佐著作集』別巻(大空社、平成22年1月)の「兼常清佐年譜」によると次のとおり。

明治43年7月 京都帝国大学卒業(哲学専攻)
同年9月 同大大学院入学。研究題目は「ギリシャ思想史」
大正3年 大学院での研究題目を「東洋ノ音楽及言語ノ歴史トソノ物理上心理上ノ構造」に変更
同年2月 京都在住のまま、東京音楽学校邦楽調査掛嘱託を委嘱される。
 4年4月 『大阪朝日新聞』京都附録の「学生の天地」に、大学院生として心理実験に専念する「奇人変人」兼常の日常が取り上げられる。
同年12月 本拠を東京に移し、小石川区上富坂二三いろは館に居を定めた。東京帝大の松本亦太郎研究室での実験、南葵文庫での音楽図書閲覧などを始める。

一方の「小林生」は、画家の小林源太郎である。『兼常清佐著作集』15巻の大正7年6月19日付け佐藤篤子(後の兼常夫人)宛書簡に

1 白樺展覧会を見に行った日の事。(画かきさんの話)
(略)結城素明氏の友人の、あまり有名でない小林といふ画かきさん。小山夫人と小生と立ってゐるのを大変面白く思って、うしろからそっとスケッチにかいたものです。(略)

とあるが、この「小林」について、編者が「行樹社所属の小林源太郎(一八八三〜一九五一)。「夢二問答」(『音楽』七巻八号、大正五年八月)で、兼常と対談している」と注を付している。小林の経歴については、ネットで読める版画堂の「近代日本版画家名鑑」に詳しく書かれている。そこから要約すると、

明治16年 東京生
 41年 東京美術学校日本画科卒*1
 一時友人の織田一磨に誘われて、「パンの会」に参加
明治45年(大正元年) 水島爾保布・小泉勝彌らと「行樹社」を結成

かわじもとたかさんの好きな水島やPippoさんが好きなパンの会に関わる人であった。
対談の内容だが、兼常に「夢二の画の先駆者は誰でせう」と聞かれ、

(略)独断で何でも言つて見るならば、夢二の画自身が或る未来の画の先駆者ですが、そのまた夢二の先駆者と言ふならば、私は一方に小杉未醒小川芋銭の漫画をあげ、一方に一條成美、藤島武二などが『明星』にかいた画をあげ、そして最後にーー此処らが大分独断ですがーー以前の小学読本や英語の読本などの挿画をあげます。も一つ西洋画で行けば、まづスタンランやドガーと言ひたい処です。

と答えている。この辺りの当否は、木股先生に聞かないと分からないところである。

*1:東京美術学校教授荒木寛畝の弟子だったようで、小林は兼常に「あなたは寛畝翁晩年の最愛の弟子でした。それにも係らずあなたは自分の信ずる芸術の発達のためには、それ程の先生の画風に涙を飲んで反抗しました」と言われている。