神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

近藤計三の詩誌『狙撃兵』をめぐる足立巻一のやちまた

ツイン21で大阪市の近藤計三方狙撃兵グループ宛足立巻一の葉書を購入。高山文庫の出品。消印は昭和34年1月3日付け。文面は、
・『狙撃兵』送付のお礼
・旅行がちのため会に出席できないことへのお詫び
・森上の詩と近藤のエッセイへの感想
・自分の詩を書いていきたいという思い
『人の世やちまた』(編集工房ノア、昭和60年10月)の「足立巻一略年譜」でこの前後の足立を見ると、

昭和21年
12月 新大阪新聞社入社
22年 新大阪新聞「働く人の詩」欄の事務を担当、2月に詩誌『働く人の詩』(2号のみ)を編集。清水正一・中川信夫・森上多郎・中村泰・高島健一らを知る。
31年
6月30日 新大阪新聞社退社。以後『週刊新潮』に関西関係の記事を送る。
11月 月刊誌『トラベルグラフ』(大阪駅構内鉄道弘報社)の嘱託記者となり、以後全国を旅行する機会を得、同誌に多数の紀行文を掲載(昭和41年まで)
32年
4月 日本宣伝株式会社企画嘱託となる(昭和44年12月まで)。月刊誌『ひらけゆく電気』(関西電力)の編集嘱託となり、翌月から毎月おもに近畿・北陸の紀行地誌を連載(昭和54年3月まで)
33年
8月 きだみのる紀行『どぶねずみ漂流記』(15分番組、18回分)の構成を担当し、しばらくきだと行動を共にし、多大の影響を受ける。
10月 第一詩集『夕刊流星号』(六月社)刊。詩誌『天秤」(第二次)第一号出る。
34年
5月 母マサヨ死去

また、前掲書の「光陰抄」には、「旅行雑誌・PR雑誌の編集を引き受けてほぼ全国を取材旅行し、週刊誌に記事を送り、放送番組の構成を請け負い、宣伝会社の嘱託をし、まったく寸暇もなく働きとおした」とある時期である。葉書の文面にあるように、確かに「旅行がち」だったようだ。
『狙撃兵』という詩誌については、志賀英夫編『戦後詩誌の系譜』(詩画工房、平成20年12月)によると、

狙撃兵 大阪 (昭和31年)2月創刊
編集発行者 近藤計三
発行所 グループ狙撃兵
所蔵 井谷資料館
同人 藤本道男、森上多郎、近藤計三

葉書の文面中の「森上」は森上多郎と確認でき、年譜により足立は新大阪新聞の「働く人の詩」欄を担当していた関係で森上と知り合ったことがわかる。この森上の経歴は、『新日本文学』52巻5号(平成9年6月)の芝充世「追悼森上多郎」で判明。

昭和21年京阪神急行電鉄(後に阪急電鉄)入社
1940年代後半から1950年代にかけて夕刊新大阪の「働く人の詩」欄に投稿を重ねた(選者は、梅木三郎(黒崎貞治郎)、足立、須藤和光、小野十三郎竹中郁安西冬衛)。
阪急電鉄労組の専従者となり、昭和52年から55年まで本部執行委員長
退職後、阪急学園池田文庫で展示・企画を行い、59年寺島珠雄構成による「小野十三郎展」を開催

芝は近藤についても言及し、「新日文大阪支部、<狙撃兵><叛><解氷期>を共有し、長い友情で結ばれた近藤計三」と書いていて、近藤と森上が特別に親しかったことがわかる。
肝心の近藤の経歴だが、よくわからない。太田登・近藤計三・玉井敬之・福地邦樹『現代詩 作品と資料』(桜楓社、平成元年1月)に、昭和5年大阪生れ、関西大学卒業、現在金蘭短期大学とあるぐらいである。金蘭短期大学の先生かと思って、当時の『全国短大高専職員録』を見ても記載されていない。非常勤講師だったのかもしれない。
なお、近藤の旧蔵書が文庫櫂に出たようで、そのうち小野の近藤宛署名入りの『定本小野十三郎全詩集』は「ゆずぽん」氏の手に渡ったらしい。

戦後詩誌の系譜

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現代詩―作品と資料

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