神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

佐々淳行の親の仇?藤澤親雄


先日の「東大落城」にも出ていた佐々淳行。その『戦時少年佐々淳行 父と母と伊藤先生』によると、母縫子は、東京帝国大学文学部長兼図書館長だった和田万吉の長女だという。父は、佐々弘雄。淳行は父について次のように書いている。

ぼくが佐々家に呱々の声を上げたのは昭和五年の師走のことだが、このとき世の中は、前年十月に起きたウォール街の株式大暴落の余波を受けて、不景気のドン底だった。(略)
当時、わが家はわが家の事情で、最悪の経済状態だった。「事情」というのは昭和三年、いわゆる“九大事件”として知られる学生騒動に巻き込まれた父が官を追われ、少壮気鋭の帝国大学教授という名誉ある地位から一転して天下の素浪人となったことに始まる。


この佐々弘雄九州帝国大学を追われることとなった九大事件とはよくわからないので、竹内洋先生にでも調べてほしいと思っているのだが、小島威彦によると弘雄らと対立したのが、藤澤親雄であったという。


小島は『百年目にあけた玉手箱』第2巻で、昭和7年国民精神文化研究所設立とともに、同僚となった藤澤について次のように記している。

政治学は元九大教授の藤沢親雄で、佐々弘雄向坂逸郎と対立し、喧嘩両成敗で辞めた人だ。彼は元学士院総裁の数学者藤沢利喜太郎の長男で、英独仏印西和露の七ヶ国語を自由に駆使できる日本主義者だと聞いている。


小島の記述によれば、藤澤は佐々淳一にとって親の仇とも言うべき存在だったことになる。

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小松左京に落語小説なるものがあったらしい。『明烏 落語小説傑作集』(集英社文庫)。解説:大森望桂米朝師匠との対談も収録とのこと。

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『端書世界』第6号の目次に大熊速/△△△「上野の絵端書展覧会」とある。発行は明治38年9月頃と思われる*1。まさか誰ぞは、明治新聞雑誌文庫で既に見ているのか。今月6日参照。

*1:明治38年4月創刊の月刊誌なので。