神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

目録コレクター『目録の目録雜考』の西岡祥吉

南木芳太郎の日記*1に『目録の目録雜考』という本が出てくる。

(昭和五年)
十一月十七日
(略)堺の西岡祥吉氏より『目録の目録雜考」贈り来る。

「目録の目録」とは気になるので、国会図書館デジタルコレクションで見てみた。『目録の目録雜考』第1輯で、昭和5年11月発行の非売品。表紙には西岡祥吉/西岡貴美子父子共編とある。内容は、博覧会、博物館・百貨店・図書館等における展覧会、個人の所蔵品入札会などの目録のリスト。明治5年本願寺等で開催された博覧会の品物目録から昭和5年大連大毎館で開催された大毎本山社長*2喜寿書画展の目録まで360冊程の目録について、会期、会場、目録名、主催者が記してある。タイトルに「雜考」とあるが特に考察はない。祥吉の「自序」によれば、堺市の前田長三郎宅で開催された同氏蒐集の目録個人展に出品された物に、西岡が所蔵する分と直井精一の所蔵分を加えてまとめたものだという。南木の所蔵品も提供されたらしく、

尚南木氏文庫の御厚意ありしも小生も子供も忙しくまた、第二輯を編する時に致します。

とある。「子供」とは娘で、同年に府立高女に入学した13歳の貴美子のことである。貴美子の「自序文」によると、祥吉は小さい時から小僧にやられて、学校など少しも行かず、それでも、将来必ず石器時代研究者として日本で有名な人々の中に入れられると思うと書いている。また、小さいながらも工場を托されているともある。
西岡が本書以外に執筆したものとしては、「関西人の見たる武蔵野」『武蔵野』12巻4号、昭和3年10月がある。昭和2年11月に上京した折、立ち寄った井の頭公園茶店や和菓子屋で蒐集癖が出て広告レッテルやマッチのレッテルを貰ったり、国分寺で瓦の破片や石槍、石斧を見つけたことを報告している。東京人類学会の会員だったようで、八幡一郎「鐸形土製品」『人類学雑誌』42巻12号、昭和2年12月*3によると、

十月下旬、会員の西岡祥吉氏が人類学教室を参観されたさい、堺市付近の先史原史両時代遺物類を携え来られて、同教室に寄贈された。(略)同氏が堺市三国丘において発見されたものである。

という。ただし、娘の願いのような石器時代研究者としての名は残っていないようで、グーグルブックスによると、『人類学雑誌』49巻(号数不明)、昭和9年に前年亡くなったという訃報があるらしいことしかわからなかった。なお、結局第二輯は刊行されなかったと思われる。本書を出したからと言って必ずしも目録のコレクターだったとは言えないが、取り合えず西岡を目録コレクターと名付けてみた。ちなみに、本書の巻末に「西岡黙羊」とあるので、黙羊と号していたようだ。
前田については、森浩一『交錯の日本史』(朝日新聞社、平成2年3月)に、

堺市に前田長三郎(文林)という考古学研究者がいた。文字瓦をだす大野寺の土塔(略)は前田さんが学界に紹介したものである。

とあり、文林と号していたようだ。また、『千里相識』(集古会、昭和10年9月)にも載っていた。堺市生まれで、無職、研究事項は石器、土器、古瓦、短冊その他で、雅号は文林と苔瓦園。
前田は西岡に比べると今でも名が残っているようで、江戸遺跡研究会編『江戸の食文化』(吉川弘文館、平成4年1月)の渡辺誠「焼塩壺」に登場する。

(略)主生産地である堺で熱心に調べて書いたのが前田長三郎氏である。前田氏は、大阪の有名な弥生時代遺跡である池上遺跡の発見者でもある。この前田氏が『堺塩焼壺考』(未定稿)というガリ版の本を、昭和六年(一九三一)に出している。(略)
なおこれはガリ版刷りの珍本で、なかなかみることができないからということで十分に評価されていないが、これはとんでもないことである。

直井は、『書物展望』2巻5号、昭和7年5月の「書物探求欄」で「求める本」として、『考古学会雑誌』や『風俗研究』の端本のほか、「言語学雑誌」、「方言に関する文献資料」をあげている。なお、同欄には、青柳秀夫、須知善一、斎藤昌三の名も見える。

江戸の食文化

江戸の食文化

*1:『南木芳太郎日記』1(大阪市史料調査会、平成21年12月)

*2:大阪毎日新聞社長本山彦一で、本書の表紙に「大阪毎日新聞社社長本山老先生に捧げます」とある。

*3:引用は、『八幡一郎著作集第三巻弥生文化の研究』(雄山閣、昭和54年10月)による。