神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

星新一が『祖父・小金井良精の記』に書かなかったこと

届いたばかりの『盛林堂の本棚 盛林堂書房古書目録』第3号のトップは星一『三十年後』(新報知社、大正7年5版)12万円である。だからというわけではないが、星一の妻と息子でSF作家の星新一の話を。『小金井良精日記 大正篇』(クレス出版平成27年12月。以下『日記』という)で新一の両親である星一と精(せい、精子。小金井の次女)の見合いから新一の誕生までに関する記述を幾つか拾ってみる。

(大正十四年)
七月二十三日 木 雨 帰京
(略)星の件は去る日曜氏午前より小此木家*1に来、偕楽園にて昼食し後小此木え戻り精を呼びたりと、赤羽根(ママ)土手、帝国ホテル、九時半精帰りたりと(略)

十一月二十三日 月 晴 祭日
(略)精子昼頃電話により鎌倉え行東京駅より同行のよし、きみ子九時過水道橋にて迎に行く。帰りての話に愈々諾、但同棲は来三月の後、秘、両親に其の旨伝へよと。我等も其考に定むべし

十一月二十四日 火 雨
(略)精子指環を注文したりと

(大正十五年)
二月八日 月 曇
(略)突然きみ子に会ふ、後室に来り今精子身体のこと付成田氏にそれとなく相談したりと、種々困談、面談口約といふことを迫り試む外なしと一致す(略)

二月九日 火 晴
一〇、〇教室、暫時してきみ子来室昨夜せいと三時まで話したりと、はせより始め島*2、星の最密のこと、始めて寄せたるは十五のときなりしことから話し出したりと 赳全く憎百を以て破りたりと、実に戦慄、一時過ぎてきみ去る(略)六時半家に帰る、精電話を試みたりと又速達便を出したり、精心を安めたる様子(略)

四月二十五日 日 曇
(略)五時頃精子帰る、星氏繁忙の様子、兎に角談出来、他一切やめて唯入籍といふことより外なしといふことに帰着す

四月三十日 金 晴
(略)きみ子柿内え行きて、精妊娠のことを始めて漏らしたり

五月一日 土 晴
(略)田鶴来り居る(略)精のことに付憤慨、十年前のことを再ひ繰り返へす、何故今まで言はさりし、精腑がひなきこと、知人に顔向けならぬ云々(略)

五月三十一日 月 曇
(略)きみ子星え第二の手紙を出す、戸籍のこと余り遅延、此方はこれまで極度に忍堪したりといふ次第

八月六日 金 晴
(略)きみ子奔走、代書にて書式等を調べ、星え書留にて出す

八月十日 火 晴 再暑
(略)星より来書、晩、速達便手続き人を特に遣りて済ませたりとて其謄本を送り越す、ただ将来を祈る、日附は九日

九月五日 日 晴
(略)二時〇五分分娩、男児、総て順序よく運びたり

「きみ子」及び「きみ」は小金井の妻喜美子(森鴎外の妹)、「田鶴」は小金井の長女で夫は柿内三郎。星夫妻の入籍(大正15年8月9日)前に新一が精のお腹に宿っていたことについては、最相葉月星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社、平成19年3月)でも書かれていたところである。それにしても、星一は『人民は弱し官吏は強し』で描かれているようにこの時期は刑事事件の被告人*3などとして極めて多忙な時期だったとはいえ、入籍手続が遅すぎる。小金井家も精がバツイチ*4で子供も出来てしまったのでは、話を御破算にするわけにもいかない。
『日記』によると精が数え15の明治43年や「十年前」である大正5年に何かがあったようだが謎である。
最相氏によると、精の再婚相手の候補としてもう一人五島慶太がいたという*5。確かに『日記』には「五島」が出てくる。

(大正十三年)
五月二十四日 土 曇 晩大雨
(略)留守中金森夫人来り相談のこと、五島の件に付如何云々 柿内に相談のためきみ子大雨中出行く

五島との話の方が星との話より先にあったようだが、あまり話が進展した気配はない。
『祖父・小金井良精の記』の主人公はあくまで小金井だから、新一が母親についてあまり言及していなくてもおかしくはないのだが、もう少し精のことについて書き残しておいてほしかったものである。

祖父・小金井良精の記 上 (河出文庫)

祖父・小金井良精の記 上 (河出文庫)

祖父・小金井良精の記 下 (河出文庫)

祖父・小金井良精の記 下 (河出文庫)

星新一 一〇〇一話をつくった人

星新一 一〇〇一話をつくった人

人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫)

人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫)

*1:小此木信六郎。小此木耳鼻咽喉科病院長。

*2:原文は「はせ」及び「島」に傍線

*3:台湾阿片令違反事件で大正13年11月9日罰金三千円の有罪、15年5月28日二審で無罪、同年9月14日無罪確定。

*4:最相氏によると、大正元年11月に陸軍大将大嶋義昌の息子陸太郎と結婚したが、20日もしないうちに小金井家に帰されたという。

*5:妻万千代が大正11年1月に亡くなっていた。