穂積歌子の日記が「情報の宝庫」(黒岩比佐子さんのコメント)であることは、「婦人交際会とお近づき」(2009年2月26日)や「穂積陳重の法理研究会と催眠術」(2009年2月27日)で示したところである。この日記の中に、更に平井満寿の夫となるポール・ケートの一家に関する記述を発見した。
明治35年6月12日 二三日前より隣家ケート氏の子、庭へ遊びに来りしが、今日は姉なる娘も来り遊びたり。
<昭和三十五年頃のころだったと思う。七十歳近いかと思われるアメリカの婦人が孫とおぼしい女の子をつれて突然来訪したが、この婦人がこの「姉なる娘」であった。「ケート氏」の旧宅だった南町一番地(東北隣)の家はその直後改築されたが、当時はまだ昔のままだったので、二階まであがらせてもらってなつかしんでいた。明治四十年代までここで暮したらしい。その後日本人の医者が住み、第一次大戦の頃東大法学部講師ステルンベルヒ氏が借りたが、大正十年私が生れた頃には、すでに国粋団体「猶存社」の本部となってからしばらくたっていたという*1。「猶存社」は大正八年大川周明・北一輝らが創立したものだから、あるいはその最初の本部だったのかもしれない。(略)
*「<」以下の注記は、歌子の孫の重行による。
平井一弘『あるモダン・ガールの昭和初期』によると、ポールの父アイザックは、明治34年再来日し、家族と牛込区南町に住み、41年帰国の途中船上で死去したというので、上記の「ケート氏」の一家は、アイザックの一家と見てよいだろう。「姉なる娘」に相当すると思われる長女エセルは、明治24年生まれなので、昭和35年には70歳前後である*2。
(参考)2月13日
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