紅野敏郎『「學鐙」を読む』の正・続の紹介が先週の『週刊読書人』(1月15日号)に出ていた。そこで、同書の話。
正編の方に、生方敏郎が出てくる。紅野先生によると、早稲田の学籍課の資料には、敏郎の当時の住所は小石川区同心町六の正宗忠夫方とある、つまり、正宗白鳥と同居していたらしい。また、保証人は、親戚の浅草区向柳原一ノ二七の宣教師星野光多になっているとし、「親戚」がどういう形の血縁か不明としている。
オタどんが教えてあげるが、敏郎の「親戚」星野光多については、星野達雄『星野光多と群馬のキリスト教』に詳しい。同書によれば、敏郎の母かく*1は、光多の父宗七の妹に当たる。つまり、敏郎は光多の従弟に当たる。また、同書には、光多が敏郎などの親戚縁者の大学入学その他の保証人となった旨が書かれている。光多は恩人ともいうべき存在だったのか、敏郎は長男に光多と名付けている。
(参考)光多の長男が星野直樹、三男が星野芳樹。光多の末妹が星野あい。
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先日の日経の「春秋」欄と朝日の「天声人語」欄は、焼失した「ざしきわらし」の緑風荘の話から始まり、柳田の『遠野物語』が100周年を迎えるという内容の文章でシンクロしていた。その遠野物語の展覧会(「「遠野物語」100年の記憶−佐々木喜善と仙台−」)が、仙台文学館で3月22日まで開催中。
ページビューが80万件に近づいただす。
*1:生方弥右衛門の後妻で、弥右衛門没後、幸助が入婿となり、その後、敏郎が誕生。