明治35年3月31日 兄実弥登が、岡谷繁実の自著『皇朝編年史』の出版に当り、史料編纂所の資料を無断で借用したと称し「著作権違犯」に問われた際、岡谷の仕事を直接幇助したと断定され、連座の形で免職になってしまった(裁判は、明治四十一年まで足掛け七年も続いた)。
この事件は、明治33年から刊行された岡谷の『皇朝編年史』が、東大に著作権のある『大日本編年史』を剽窃したものであるとして、岡谷が告訴されたものである。同事件については、岩永胖『自然主義文学における虚構の可能性』に詳しく、同書掲載の、岡谷側の大審院への上告理由書によると、
大日本編年史ニハ毎巻々頭ニ久米邦武編ト題スルノミニシテ、敢テ著作ト言ハザルナリ、而シテ久米邦武ハ輯集サレタル史料ヲ漢訳シタルノミ、其漢訳ノ材料タル史料ハ被告ガ部長トシテ他ノ多クノ属官ヲ指揮シテ聚集シタルモノニ属スルコト、第一審以来被告ノ極力主張シ証拠取寄ノ結果証明セラレ得タル事実ナリトス去レバ編年史ノ各部分ニ附テノ思想権ハ漢訳者タル久米邦武ニ存セザル処ナリ(中略)結局大日本編年史ニ就テハ何ラノ独創ニ属スル思想ナク随テ著作権アルコトナシ
何やら法的に難しいことを言っているようだが、岡谷の思いとしては、自分が修史館(東大史料編纂所の前身)在職時代に中心になって集めた資料が基になっているのだから、どう使おうと俺の勝手だろう、と言いたかったのだろう。
<盗作>事件は、文学だけではなくて、様々な分野で生じていたのだね。
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コメント欄がないと不便なので、とりあえず復活してみた。