神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

飯森正芳と堺利彦らの時代


『大本七十年史』360-361頁に、飯森正芳への注として「大正九年か十年ころ東京にでて、大杉栄堺利彦その他無政府主義者社会主義者とも交わり」とあるが、飯森と堺の初対面はその頃かと思ってしまうと、大間違い。たとえば、岡崎一「「狄嶺文庫」発掘(1)−堺利彦・山川均の書簡−」*1掲載の大正5年8月24日付け堺の江渡狄嶺宛葉書に、

(略)山川君と房子君との間には種々面白い話の種がある、それにつき、先達て飯森君がウズメの命と同道で訪問された時、寄せ書の葉書を高田君に送つた事がある(略)


とある。岡崎氏によると、「高田君」は、九津見房子の夫の高田集蔵、「飯森君」は高田の所に出入りしていた飯森正芳、「ウズメの命」は飯森の妻とされる。


更に『日本アナキズム運動人名事典』の飯森の項に参考文献としてある渋六(堺の別名貝塚渋六)「神々の行末」*2によれば、「海軍機関中佐飯森正芳」という名刺を持った客が、ある日売文社を訪ねてきたが、名刺の裏には、「大縣の住人」(高田のこと)の署名で紹介文が書いてあったという。また、同記事は、『村落通信』に高田が「飯森正芳神」を書いたことを思い出したこと、飯森は軍職が嫌になり今度休職か何かにしてもらったと記している。


飯森については、呉念聖「「思想遍歴屋」飯森正芳−ある明治知識人の弛まざる追及−」*3に詳しいので、それを見ると飯森は大正元年12月に機関中佐、3年6月に待命、同年7月に予備役編入になっている。また、高田が『村落通信』に書いた「飯森正芳神」*4には、「米のセオソフイカルソサエチーの会員、トルストイアン、全租税論者、而して歩むに蟻を殺さぬ用心をする豫備海軍機関中佐」とある。これらにより、飯森と堺の初対面は大正3年7月以降10月までの間と推定できる。


呉論文は、宮崎虎之助の信奉者で、飯森の親友の中村彌次郎が創立した有楽社に、宮崎がしばしば訪問していたこと、同社には日本エスペラント協会が明治39年から43年まで間借りしていたこと、大杉栄らもよく出入りしていたことが書かれている。また、飯森と宮崎はそこで出会ったのではないかと推測している。宮崎と飯森の関係については、ma-tango氏の「http://d.hatena.ne.jp/ma-tango/20090426」を参照。今年100周年を迎える売文社とともに、有楽社、日本エスペラント協会は、おそらく黒岩さんの執筆される堺利彦伝にも登場すると思われる。

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ハヤカワ文庫の宇宙英雄ローダン・シリーズの368巻が出てた。誰が読んでいるんだと思ってたら、今年から月1冊から2冊のペースにアップするとのこと。今でも売れているようだ。わしは、これもグイン・サーガ同様100巻手前で挫折したような。表紙・挿絵も依光隆氏から工藤稜氏に交代。
星間復讐者 (ハヤカワ文庫SF ロ 1-368 宇宙英雄ローダン・シリーズ 368)

*1:彷書月刊』2巻4号、1986年3月。

*2:『へちまの花』10号、大正3年11月1日。

*3:『人文論集』47号、2009年2月。

*4:引用は、『高田集蔵文集第二集』による。同集は『村落通信』38号(大正3年1月発行)〜63号(大正4年1月発行)から精選したもの。