「書物蔵」で引用されていた、『宮沢賢治全集』第7巻月報(1973.5)所収の高橋新吉(ダダイズム詩人)の一文*1。高橋は、関根喜太郎について、より詳しいことを『ダガバジジンギヂ物語』(思潮社、昭和40年7月)に書いている。
素人社へ行くと、体格のいい金児*2の細君が子供を抱いていた。(略)金児が、詩集を出さないかと言うので、詩稿を、彼に渡したが、私は、昭和四年頃、郷里の内牢の中で書いた「戯言集」の原稿は渡さなかった。此の方は、その頃駿河台にあった、刀江書院の、関根喜太郎に、預けて、出版を依頼したのであった。
(略)
関根のところへ或日行って戯言集の原稿はどうなったかと聞くと、関根は、
「あれは本になるよ。どこの本屋とは言えないが、まもなく出るよ」と言った。
刀江書院でないことはわかったが、私は、著者であるにもかかわらず、自分の本が何という本屋から出版されるか、知らなかったのである。迂闊といえば、ウカツな話だが、関根の態度は、著者をバカにしたものであった。
(略)
奥付を見ると、「版権所有」と印刷してある。発行者は、牛込区改代町十八、与座弘晴とあるが、此の名前は、私は聞いたことがなかった。「読書新聞社」となっているが、そんな新聞も、見たことがなかった。私は、宮沢賢治の「春と修羅」の発行者が、関根喜太郎であって、刀江書院の支配人のような位置にいる彼を、一応信用して、戯言集の出版を、依頼したのだが、相手が悪かったと言わねばならぬ。(略)定価は五十銭となっているが、こんなキタナイ本を買う人間は、恐らくあるまいと、私には思われた。
(略)
私は、それまでに、関根に、金を借りたこともなければ、何の世話にもなったことはなかった。ただ辻潤などをとおして、彼を知っていたに過ぎない。
(略)
その後、一二度戯言集をもらいに、彼の家へ行ったが、数年後に、与座君は病死したのであった。
関根の『戯言集』は、昭和9年3月刊行。与座の死(昭和15年らしい)については触れているが、関根の死については触れていない。もともと、高橋は関根とは親しくなかった上、詩集の出版を巡って不快な思いをさせられているから、『宮沢賢治全集』の月報を書く時点で、与座と混同した上、自殺したと書いてしまったのであろうか。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
最近は猫も図書館に住んでいるらしい。→早川書房のヴィッキー・マイロン『図書館ねこ デューイ』
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
エルマガで林哲夫画伯の写真と、アトリエ箱庭での佐野繁次郎装幀コレクション展の案内を見る。同展の案内は、新聞にも出てますたね。思い出のエルマガだが、12月25日発売の2月号で休刊になるらしい。