神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

生方敏郎が「新潮社を訴へてやる!」


生方敏郎の略年譜をシコシコ作りかけるも、各種の日記で見つけた記述をどこまで盛り込むか、悩むところ。
鴎外の日記によれば、生方は鴎外と少なくとも4回会っているが、略年譜では全部書くのもどうか。次のような興味深い記述もあった。

明治43年1月31日 西本波太続一幕物の印税を持ち来訪す。生方敏郎が木精ごつこを書きしは、木精を夏目金之助の作と認めしによりてなり。此事生方が西本に話しし由。


ちと、よくわからないので調べてみるね。


坪内逍遥の日記には、穏やかならぬ記述があった。

大正4年9月17日 生方敏郎来、岩野清子の話、新潮社を訴へる云々の話


これもよくわからないが、「書物蔵」(完全にプライベートモードに移行しちゃったね)によると、斎藤夜居が「生方敏郎著作目録(抄)」を作成しているようだから、それが謎解きのきっかけになるかも。


追記:ガーン。どうも、「新潮社を訴へる」のは岩野清子(岩野泡鳴の妻)だったみたい。泡鳴の年譜によると、

大正四年 八月五日ついに、清と別居、泡鳴は十一日付で各方面に別居通知状を送り、巣鴨町一〇七二番地に移転、英枝と同棲しはじめた。ところが、同月十六日、「国民新聞」紙上に、英枝の前夫との関係もあって姦通事件として報道され、姦夫姦婦という多くの非難をまき起こした。高島米峰、渡辺鉄蔵、鹿子木員信、桑木厳翼、井上哲次郎などがこれを攻撃し、泡鳴はそれについて不屈の信念から勇敢な反駁文を書き、十月、これらをまとめて『男女と貞操問題』と題し新潮社から出版した。この間、清から「契約*1破棄並に同居請求の訴訟」が起こされ、泡鳴も反訴するなど、身辺多忙をきわめた。(略)十二月中、判決があって、清の起こした同居請求の訴訟が勝利を得、反訴した泡鳴の離婚請求の訴訟が敗れた。


出版社を訴えても仕様がないと思うが、岩野清子は新潮社を訴えようとしていたのであろうか?

*1:別居契約のこと