神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

拝啓 『契丹古伝』様

「日本資本主義の父」、渋沢栄一は数多くの株式会社を作っていただけではなく、偽史運動とも多少関係があったようだ。
渋沢の日記*1によると、


昭和2年3月8日 浜名寛祐氏来り日韓正宗溯源ヲ著作セシ由ニテ其成本ヲ示シ、且、賛助ヲ請ハル、即チ同意シテ成本壱百部引受ノ事ヲ答へ成本次第其代価支出ノ事ヲ約ス

濱名寛祐(かんゆう)は、『日本陸軍将官辞典』、『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』によれば、



 元治1・5・5生−昭和13・2・23没
 大正2・5・8 主計監(少将相当官)


 明治39・2・23 第十二師団経理部長
 大正1・9・28 近衛師団経理部長
   2・5・8 千住製絨所長
   3・5・11 関東都督府経理部長
   4・2・15 待命
   4・5・1 予備



濱名は、日露戦争時に「鴨緑江兵站経理部長」とされる(11月13日参照)が、今のところ、その確認はできていない。
濱名より先に奉天郊外の黄寺で『契丹古伝』に遭遇したとされる廣部精なる人物については、その実在を確認できた。


六角恒廣「廣部精と中国語教育」(『早稲田商学』第284号、昭和55年7月)及び『対支回顧録』下巻(対支功労者伝記編纂会、昭和11年4月)によれば、



 安政元(1854)年7月11日 上総国請西藩士廣部周助の三男として生まれる。
 明治8年 東京尾張町に日清社を創設し、漢学と中国語を教育。
 明治10年12月 日清社を閉じる。その後、中村正直の同心社へ移り、漢学と中国語を教える。
 明治12年6月から13年8月まで 『亜細亜言語集』第1巻〜第7巻刊行
 明治14年8月 陸軍四等出仕に任じ、陸軍省会計局に出仕。
 明治16年2月10日 陸軍会計軍吏補に登用。
 明治17年7月 中部検閲使監軍部長の属員
 明治19年3月 麻布歩兵第三連隊第二大隊会計官に転じる。
 明治20年4月 官制改革によって陸軍二等軍吏となる。
 明治23年 陸軍経理学校教官に補せられる。
 明治25年11月 一等軍吏に昇進し、更に経理学校副官に補せられる。 
 明治30年7月 予備役編入
 明治38年3月4日 日露戦役の動員召集に方り、留守第一師団経理部附となり、次で宇都宮第十四師団に転じる。
 明治38年7月 大連に上陸戦務に服する。
 明治38年10月31日 同日付け辞令を以て鴨緑江兵站監部経理部員に転補
 明治39年2月 凱旋
 明治41年6月 大隈重信、市村瓚次郎、渋沢栄一、島田三郎、矢野文雄らとともに孔子教会を設立し、評議員となる。
 明治42年8月15日 没



これによって、『契丹古伝』の「発見」の時期が、明治38年11月から39年2月までの間に限定できた。

*1:渋沢栄一伝記資料』別巻第二、竜門社、1966年