神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

日露戦争下の奉天に結集した凄い人達


日露戦争下の明治38年。各種の文献によると、奉天にはトンデモ凄い人達が結集していたようだ。まず、大阪朝日新聞記者だった内藤湖南(外務省より満洲軍占領地行政調査の嘱託を受け視察中)の日記*1によれば、

明治38年7月29日 朝六時 奉天駅ニ着ス(中略)総司令部ニ副官古川少佐 岩太郎 ヲ訪ヒ(中略)副官明日以後城外黄寺ニ新タニ設クベキ兵舎ニ宿スルヲ可トスルコトヲ告グ 


明治38年8月1日 本願寺ノ渡辺哲乗、大谷尊重師並ニ其弟尊由ノ黄寺構内ニ住セルコトヲ語ル


明治38年8月7日 此日本願寺ノ本多恵隆氏ヲ見ル


渡辺哲乗は、第一次大谷中央アジア探検隊のメンバー渡辺哲信の弟。『モダニズム再考 二楽荘と大谷探検隊Ⅱ』(芦屋市立美術博物館、平成15年9月)によれば、哲乗も第一次大谷探検隊に連動した東南アジアの陸部・島部の調査(ビルマ雲南ルート)に参加した後、中国に滞在していた。
本多恵隆も第一次大谷探検隊のメンバー。本多隆成『大谷探検隊と本多恵隆』によれば、明治37年3月、第二軍従軍布教師監督事務取扱となっている。
また、大谷尊重は、後の光明。尊重、尊由共に大谷光瑞の弟で、光瑞が長男、尊重は三男、尊由は四男。


内藤の日記によれば、8月から9月にかけて、東京帝国大学から派遣された鳥居龍蔵伊東忠太、市村瓚次郎を黄寺に案内している。後に東洋学の権威者となる若手の学者がこの時勢ぞろいしていたことになる。


また、著名な人物としては、第二軍軍医部長として従軍していた森鴎外が3月から5月にかけて奉天に宿営していたし、山縣有朋大本営参謀総長として7月に視察に来ている。

*1:内藤湖南全集』第6巻