神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

星製薬の謎(その2)


最相葉月星新一』では、昭和26年1月ロサンゼルスで星一が亡くなったという訃報を受け開催された緊急の取締役会議に集まったメンバーとして、常務取締役の日村豊蔵、監査役の顧問弁護士花井忠のほか、元陸軍中将若松只一の名前を挙げている。
この若松は、明治26年3月、福島県生まれ。この人も星一と同じ福島生まれだ。昭和17年12月に陸軍中将、20年7月から10月まで陸軍次官を務めている。


若松の名前は、佐野眞一『旅する巨人』にも出ていた。民族学岡正雄と親交が深かった人物として、元イタリア大使館付き駐在武官終戦参謀本部第二部長だった有末精三のほか、元ハンガリー公使館付きの駐在武官終戦陸軍省次官だった若松の名前を記している。


若松については、更にトンデモ関係者との交流もあったことが判明している。


反ユダヤ主義者の四王天延孝の『四王天延孝回顧録』(みすず書房、昭和39年7月)に、航空校下志津分校長時代(大正11年9月〜12年8月)のこととして、民族研究会なる組織が出てくる。

また思想問題、殊にユダヤ人問題を真摯に研究するの必要を同感せられた人士中熱心な方々は、故貴族院議員赤池濃氏が当時警視総監をしており、その相棒には警視庁の最高幹部の一員で敏腕の聞え高き正力松太郎氏(後の読売新聞社長)及警備軍司令部参謀長秦真次大佐(後の憲兵司令官中将)などであり、東京会館(?)に会合し民族研究会の基礎を相談し、秦氏を幹事とし毎月東京の偕行社で会合を催うし、研究発表をすることになり、随分長年の間ジミではあるが真面目な会合を重ねたのである。


赤池の警視総監時代は大正11年10月〜12年9月、正力は、大正10年6月〜警視庁官房主事、12年10月〜13年1月警視庁警務部長、秦は大正12年11月〜臨時東京警備参謀長仰付、13年7月〜15年3月常設東京警備参謀長。四王天の記述通りに全員の任期が重なるわけではないが、民族研究会は大正12年頃創設されたようだ。


この研究会については、宮澤正典氏の著作にも出てこない*1ので詳細が不明だが、最近発見した例のトンデモ日記にその様子が書かれていた。

昭和10年3月5日 午后五時偕行社ニ於ケル民族研究会ニ出席ス。本日ノ出席者ハ飯田久恒、伊佐一男、飯村穣、林文太郎、若宮卯之助、若松只一、高島己作、田多井四郎治、辰見[ママ]栄一、宗義雄、坪井善明、内藤順太郎、中島資明[ママ]、中沢三夫、宇佐美興屋、福島久治、赤池濃、佐藤巳之吉、四王天延孝、東戸策、諏訪部造民等ナリ。(略)其他四王天中将ノフリーメーソンノ前会后ノ行動ニ就テ談話アリシモ、主ナルコトハ仏国ニテモ其ノ反対運動起リシコトヲ指摘セシコトガ主ナルコトナリシ。


飯村、伊佐、辰巳、中沢、宇佐美、坪井は陸軍軍人。飯田、佐藤、中島資朋は海軍軍人。
高島(陸軍軍人でもある)、田多井、東は竹内文献関係者。内藤は外務省等の嘱託。
若松只一はつきあいで参加したのかもしれないが、トンデモ世界の身近にいたわけだ。


追記:『英語文学事典』(ミネルヴァ書房)を見る。J・R・R・トールキン(『指輪物語』の作者)は載っていたが、「ガンダルフを大統領に!」のことは書かれていなかった・・・

*1:正確には、宮澤正典『ユダヤ人論考』(新泉社、1973年10月)で、筆者が紹介した箇所の四王天の記述の一部を引用しているが、「民族研究会」という言葉はでてこないし、引用以上の解説はされていない。