神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

宮本常一と谷崎潤一郎その他


宮本常一の日記に、谷崎潤一郎本人は出てこないが、関係する話が出ていた。


昭和21年7月11日 朝七時四十分の汽車で大阪へ向ふ。(略)車中谷崎の『吉野葛』をよむ。いいものだと思ふ。


昭和23年1月7日 昨日今日よんだ本。『橡ノ木の話』『女性改造』1月、『地上』『二宮翁夜話評釈』『我が毒舌』(林房雄)、『谷崎潤一郎論』


昭和23年9月29日 夜、谷崎の『ささめ[ママ]雪』をよむ。心にくいまでの大阪の旧家の女の生活を描いて居る。


昭和25年11月17日 夜、『細雪』を青年会館へ見にゆく。


昭和32年1月1日 午后は谷崎の『鍵』をよむ。作品としては多くの問題を持っているが年令の故か作品に凝集力がとぼしい。


谷崎潤一郎論』という本がよくわからん。辰野隆谷崎潤一郎』(イブニング・スター社、昭和22年10月)のことかしら。論文ならまさしく「谷崎潤一郎論」に該当するものは幾つかあるみたいだが。



戦前、『FRONT』を発行したことで著名な東方社の初代理事長岡田桑三も登場する。


昭和26年6月27日 かえりに大間知氏と広小路に出ておそくまではなし、三田へかえる。岡田桑三氏とはなす。南方熊楠ゲーテ、音楽など。

岡田桑三明治36年−昭和58年)は、戦後渋沢敬三とミナカタ・ソサエティーを作り、『南方熊楠全集』乾元社版(昭和26年5月〜27年6月)の刊行に尽力したとされる*1ので、この時期に渋沢邸で、宮本が岡田と南方熊楠について話すのはもっともなことであるが、音楽についてはどんな話をしたのだろうか。なお、上記の他、昭和26年10月18日、27年3月6日にも岡田は渋沢邸を訪れている。


岡田については、多川精一『戦争のグラフィズム』(平凡社ライブラリー、2000年7月)によると、


岡田桑三は、原[弘]や木村[伊兵衛]と同世代の人で、一九〇三(明治三十六)年六月、日露戦争の前年に横浜で生まれた。彼は一九ニ〇(大正九)年ごろ、森戸辰男夫妻を頼ってドイツに留学している。(中略)また、のちにプロキノ(プロレタリア映画連盟)などに関係する下地は、このとき森戸や当時朝日新聞のベルリン特派員だった黒田禮ニの影響を受けたと思われる。黒田は在欧左翼日本人の中心的な存在で本名を岡上守道といった。


同書によれば、岡上守道は『FRONT』のドイツ語版に協力している。岡上は既に何回か言及した人物である。私のブログに登場する人物は何だか皆つながってくるなあ。そういえば、亀井貫一郎は大政翼賛会の創立に関わり、初代の東亜部長に就任。読書運動やスメラ学塾に関係していればおもしろいのだが、そうはいかないようである。なお、亀井は、昭和16年4月の改組により翼賛会を辞めているが、同月入れ替わりに藤澤親雄が翼賛会入りし、東亜局庶務部長に就任している。

*1:山口昌男『はみだしの文法』平凡社、2001年3月