山口昌男『内田魯庵山脈』によれば、スタール博士は「昭和八年七月、七十六歳の歳で、第十六回の来日を行い、満州と朝鮮に旅して八月十一日東京帰着とともに発病し、三日後の十四日に他界」。博士は、だれぞ達みたいにコショテン依存症だったみたいでこの最後の来日中に白木屋の古書展で目撃されている。
晩またぶらぶらと白木屋の古本展へ行く。白絣に袴を著け、パナマ帽を阿弥陀にかぶつた太鼓腹のぢいさんを誰かと思つたら、来朝中のスタールさんだつた。あまりに肥り過ぎて、袴が口をあいてゐるやうなのはをかしいが、和服はすつかり体についてゐる。顔まで日本人くさい好ましいぢいさんだと思ふ。『富士百景』などいふ写真帖を買つたりされてゐた。日本語は十分ではないらしく、通弁の人がついてゐた。かうした日本研究家にも、日本人のよい助手が必要であらうかと思ふ。
とある。7月の来日早々、古書展へ出かけているのだ。しかも、これは初日のようだ。
「書物展望」(昭和8年9月号)の「編集後記」で斎藤昌三は、
日本に関する幾多の著述ある米国シカゴ大学のスタール博士は、この七月十五回目の来朝をした。相当旧い知己ではあるが最近は余り接近しなかつたのを、今回は久々で逢ひたいといふことから、丁度白木の古書展の初日に友人線外邸で落合つたのが、結局それが最後で、この十四日朝鮮旅行から帰つて急死して了つた。お札博士として知られた親日家であつたが、知識階級に知友を求めなかつた博士は不幸であつた。然し、日本の土となつたことは自らも慰められてゐやう。
と記しているからだ。
よくよく、『読書日記』を見ると、7月12日の条に「晩白木屋の古本展に行きて柴田宵曲氏に逢ふ。」とあるので、7月14日は初日ではなかった。すると、スタール博士は7月14日はまさしく誰ぞみたいに足し本目当てに再度行ったのかしら・・・