「スタール博士」でググると、「古書の森日記」を始め、130件もヒットするが、その中にスタール博士と大本教について言及しているものがあった。大本教の解剖については、故中村古峡先生におまかせするとして、別の教団とスタール博士の接触について述べよう。
金谷真『川面凡児先生伝』(昭和16年3月)によると、
この年(昭和二年)春、アメリカで有名なお札博士のスタール氏も先生を訪問した。しかし先生は生憎箱根において訪客を謝絶しつつ一心に天照太神宮続篇の修文中であつたので、両者の会見は遂げられなかつた。
とある。川面凡児というのは、『神道人名辞典』(神社新報社)によれば、
かわずらぼんじ。文久2年(1862)4月生、昭和4年(1929)没。明治・大正の神道家。明治39年稜威会創立。葦津耕次郎、今泉定助らの支持を受けたという。
大本教や、川面凡児と接触を図っていたとすると、スタール博士のネットワークから言って、天津教(竹内文献)にも積極的に接触していたと推測できるのだが、確証がない。
(続く)