神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

青山光二が描いた京都学派の奇人土井虎賀壽と『鹿野治助日記』

青山光二『われらが風狂の師』(新潮文庫、昭和62年4月)は、京都学派の奇人とも言うべき哲学者土井虎賀壽(どい・とらかず)をモデルに三高時代の教え子だった青山が書いた小説である。土井が「土岐数馬」、青山が「菊本辰夫」のほかは、関係者の多くは概ね実名で登場している。京都学派の哲学者や土井の教え子が多数登場するのは当たり前だが、意外な名前に出会えるので楽しい。たとえば、

(略)昭森社は実は、二階建のこぢんまりした木造建築の二階にあるのだ。階下が小さな別室の「近代文学」編集部と、喫茶店兼酒場の「らんぼう」だった。
(略)
和製バルザックの異名がある、容貌魁偉昭森社社主森谷均は、限定本を主に、売れるはずのない詩集なども好んで出版する変り者の出版業者だったが、出版業の赤字を補填するために彼が経営しているといわれる「らんぼう」が、果たしてそのような目的に副うほどの実績をあげているかどうかは、はなはだ疑わしかった。(略)

昭森社の森谷均人生最後の年賀状」で紹介した森谷が出ている。なお、小説中では土岐は、妻子がありながら出版社の女性編集者や「らんぼう」(正しくは「らんぼお」*1)の女給だった鈴木ユリ(後の武田泰淳夫人武田百合子)に入れあげたりしている。この辺りは事実なのだろうか。
今年没後100年を迎える村山槐多*2も出てくる。

三十年以上も前、彼(下村寅太郎ーー引用者注)が京都一中の生徒だった頃、二年上級に村山槐多がいて、早熟の少年詩人として校内に異彩を放っていたが、画家としての槐多も早熟だった。(略)
土岐のデッサン*3は、直截で太い線や、対象に対うとすぐに反応して速い速度で描くらしいところが、たしかに村山槐多に似ていた。そういえば、土岐はボードレェル研究のために辰野博士の弟子になったとかいうのだが、少年時代の槐多も、ポーやボードレェルやランボオなど、世紀末の詩人・作家を耽読して、それが彼の画作の基調になっているような一面がある。(略)

本書の「あとがき」には、「私にとっては旧師であり大先輩に当る、西谷啓治高山岩男下村寅太郎の三氏」へ取材協力への謝辞が述べられているので、この辺りの記述は信用してよいのだろう。
鹿野治助の日記から見た物語「京都学派」再び」や「学内の権力闘争に敗れ教職追放となった京都学派の西谷啓治と鈴木成高」で紹介した鹿野治助の名前も出てくる。

高山岩男や土岐が京大大学院学生となった年の終り頃、高山の首唱ではじめられた華厳経輪読会*4は、さいしょ、漢訳『入法界品』をテキストにした。(略)同学の鹿野治助も参加した。

土井と鹿野はあまり親しくはなかったようだが、鹿野の日記に土井の名前が登場するので紹介しておこう。おそらく本邦初公開だろう。

(昭和十七年)
三月二十日
今に至るも未だ講師口なし。土井氏より話ありし□同志社のは土井氏結局誠意なかりし為話をすゝめずして葬り去りしものなりき.西谷、高坂氏の話しより判明せり。土井氏嫌はれて漸次孤独にな□のもこの為ならん。

青山が描いたように戦後「躁鬱病」に起因するとされる奇行が目立ったらしい土井だが、戦前においても京都学派の中で浮いた存在であったようだ。

われらが風狂の師 (新潮文庫)

われらが風狂の師 (新潮文庫)

*1:神保町の喫茶らんぼおと岩谷書店の土曜会」参照

*2:出版ニュース』2019年1月上・中旬号の「アンケートによる今年の執筆予定」によると、窪島誠一郎氏が『村山槐多詩選』(仮)を書肆林檎屋から出すようだ。

*3:昭和49年6月洲之内徹の現代画廊で「遺作土井虎賀壽素描展」が開催されている。洲之内『気まぐれ美術館』(新潮文庫、平成8年10月)の「土井虎賀壽ーー素描と放浪と狂気と」参照

*4:花澤秀文『高山岩男 京都学派哲学の基礎的研究』(人文書院、平成11年7月)の「年譜」によると、昭和3年に「華厳経輪読研究会」を組織

古書からたちで未知の早稲田大学出版部PR誌『早稲田出版月報』を知る

今は平野の杭全(くまた)神社傍にある古書からたちがまだ移転する前に買った『早稲田出版月報』。書物蔵さんも知らなかったので珍しい物か。もっとも早稲田の古書現世に「よく見ますよ」と言われちゃうかもしれない。『神保町が好きだ!2018』の「出版社・書店等PR誌一覧」(飯澤史生)にも記載されていないので、記録しておこう。

昭和3年4月号(同月15日発行)32頁
 新刊と近刊
 喜多一重「我国の金融と景気 服部文四郎氏の近著(国民新聞掲載)
 早稲田大学出版部発行図書一覧表
昭和3年6月号(同月15日発行)30頁
 清沢洌ラッセルの『産業文明の前途』塚越菊治氏訳」(東京朝日新聞掲載)
山口剛「坪内逍遙博士鑑選『近世実録全書』」
 早稲田大学出版部発行図書一覧表

内容は自社出版物の書評と発行図書一覧だけなのであまり面白くはない。昭和3年4月号に第11年第4号とあるので、大正7年1月創刊かもしれない。その後先月の全大阪古書ブックフェアで古書鎌田の300円均一コーナーから5冊も発見。発行時期が近接しているし、どちらも大阪古書組合加盟店なので出所は同一かもしれない。古書鎌田から入手したのは、

昭和3年11月号(沙翁記念完成号、同月15日発行)32頁
 逍遙「沙翁全集第四十巻『シェークスピヤ研究栞』を書くに到つた所以」など
昭和4年1月号(同月15日発行)32頁
 「一九二九年を迎へて」、吉江喬松「羅馬の夕日」(吉江『南欧の空』抜粋)など
昭和4年4月号(同月15日発行)32頁
 森田亀之助「森口多里君の近著 美術概論」(国民新聞掲載)など
昭和4年9月号(同月15日発行)28頁
 戸島紀光「実際教育の立場から見たる皇室新論」、本間久雄「高安月郊氏の近業『日本文芸復興史』を読む」、田中王堂「杉森の哲学 杉森孝次郎氏の近業『綜合倫理学』を読みて」など
昭和4年11月号(同月15日発行*1)28頁
 五十嵐力「純正国語読本の上梓に就てーー主として教育家諸氏にーー」、岩崎勉「佐藤慶二著「現象学概論」を読む」など

編輯兼発行者は昭和4年4月号までは種村宗八、同年9月号は武田尾吉、同年11月号は石野元蔵。『早稲田大学出版部一〇〇年小史』(早稲田大学出版部、昭和61年10月)によれば、早稲田大学出版部の前身東京専門学校出版局は明治19年発足、明治35年早稲田大学出版部と改称。『早稲田出版月報』に関しては言及してないようだ。ただ、大正7年1月出版部は組合会議を開き匿名組合組織から株式会社に変更することを決議し、主事種村を通じて大学の承認を求めたとあるので、そのあたりの動向と同誌の発行は連動しているのかもしれない。

早稲田大学出版部100年小史

早稲田大学出版部100年小史

*1:奥付は昭和4年9月15日発行と誤植

青木育志・青木俊造『青木嵩山堂ーー明治期の総合出版社ーー』の「年次別出版物一覧」への補足

ついこの間出たと思っていた青木育志・青木俊造『青木嵩山堂ーー明治期の総合出版社ーー』(アジア・ユーラシア総合研究所、平成29年9月)。取り上げないうちに、1年以上経過してしまった。本書の圧巻は865点1382冊にのぼる「年次別出版物一覧」(以下「一覧」という)である。図書館・個人の所蔵で実物が確認できるもの、『明治書籍総目録』・『大正書籍総目録』記載のものや発行年月など奥付の詳細情報のある書籍に記載あるものを対象にしたという。一覧には発行年の記載はあるが発行月日の記載のない書籍もあがっているので、もしかしたら古書目録等の情報も活用されているのかもしれない。発行月日の記載がない場合が多い古書目録だが、出版物の全貌をつかもうと思ったら、かわじもとたかさんの古書目録を縦横無尽に駆使した著作のように丹念に古書目録の記載情報を収集するというのも選択肢の一つであろう。
さて、架蔵の本で一覧に記載のないものがあるので、記録しておこう。

川邑房次郎編『生花水揚の秘伝』明治37年7月7日3版 ※発行者が青木恒三郎でなく、なぜか川邑である。国会図書館所蔵の石原孫一郎編『日本西洋生花水揚の秘伝』(石原孫一郎、明治20年7月)と同一内容
矢谷重芳編『(独吟自在)薩摩琵琶歌ーー音譜附』明治45年4月5日6版

青木嵩山堂 (明治期の総合出版社)

青木嵩山堂 (明治期の総合出版社)

すが秀実・木藤亮太『アナキスト民俗学』(筑摩書房)に「神保町系オタオタ日記」が出ていたとは!

先日は人文研の公開シンポジウム「1968年と宗教ーー全共闘以後の「革命」のゆくえーー」をのぞいてきました。栗田英彦先生が張り切っていて、当初司会者の予定だったのを自分もコメントしたり参加者側に回りたいとのことで、司会を對馬路人先生にお願いしておられた。各先生の講演は持ち時間30分では収まらない程濃密な内容でレジュメも精緻な物、更に津村喬氏の特別参加もあったりした。最後の質疑応答で東京から日帰りで来ていた研究者が「来た甲斐がありました」と感謝していたが、参加者は皆そう思っただろう。
さて、個人的にも嬉しい出来事がありました。講演者の一人であるすが*1秀実先生が栗田先生を通してわざわざ挨拶に来られて、「神保町系オタオタ日記」を著書『アナキスト民俗学ーー尊皇の官僚・柳田国男ーー』(筑摩書房、2017年4月)で引用させていただいたとのことでした。お役に立てて光栄でした。論文や著書で引用されたものは全部自力で見つけていたと思っていましたが、気付かないものもあるようだ。
同書の352-354頁で拙ブログの「柳田國男と満川亀太郎」に言及している部分を引用してみよう。

(略)以下に紹介する長谷川雄一、C・W・Aスピルマン、福家崇洋編『満川亀太郎日記』(二〇一一年)からの柳田にかかわる抜粋は、すでにブログ「神保町系オタオタ日記」に紹介があり、貴重な注記もあって参照されたいが、ここではブログの若干の誤記を正し、省略部分を補った。また、文中(ママ)は、同ブログの注記。(略)
(略)
ブログ「神保町系オタオタ日記」の筆者も言うように、「行地社」と柳田とのかかわりが示されている資料の登場は、これが最初ではなかろうか。(略)

引用していただくといつも思うが、「神保町系オタオタ日記」というふざけたタイトルではなく、もう少しまともなものにしておけばよかったと反省してます。「秋葉系オタ」に対抗して古本好きの「神保町系オタ」、更に「オタオタする」という意味を加えて、「神保町系オタオタ日記」と名付けました。我ながら秀逸なタイトルを付けたと最初は思っていたのですが、拙ブログを活用する研究が増えてくると、よくぞこんなふざけたタイトルのブログを活字で引用してくれたものだとすまなく思ったりしてます。すが先生、本当にありがとうございました。

アナキスト民俗学: 尊皇の官僚・柳田国男 (筑摩選書)

アナキスト民俗学: 尊皇の官僚・柳田国男 (筑摩選書)

*1:本来は糸偏に圭

竹岡書店の均一台で拾った森銑三が亡き弟次郎に捧げた『鈴木為蝶軒』

買った古本を紹介する間もなく次から次へと新たな本を買って、積ん読本が溜まるばかりである。今回は、8月の下鴨納涼古本まつりで竹岡書店の均一台から拾った小冊子を紹介。均一台では、背表紙にタイトルのない本特に雑誌や本と本との間に挟まって見落とされやすい小冊子を重点的にチェックしている。こういうものの中にどこの図書館にも無い本とか誰も見た事が無い本が紛れているからである。そうしたら見つけたのは、『鈴木為蝶軒』という22頁の小冊子、奥付はない。見返しに「昭和八年一月 森銑三」とあって、「ウォー」と思い確保。
鈴木武助(為蝶軒)は、下野黒羽藩の家老であった。調べて見ると、文章は『近世高士傳』(黄河書院、昭和17年)に収録され*1、『森銑三著作集』8巻にも収録されている。同巻の「編集後記」には、「昭和八年一月に私家版を知人に配り、のち『近世高士傳』に収録」とある。この「私家版」が私が拾った冊子ということになる。森の知人が本書を旧蔵していたことになるのだろうが、蔵書印などはない。竹岡書店の均一台には上原専禄の旧蔵書も出ていた*2が、森と上原では関係がなさそうだ。
本書の22頁に発行の経緯が記されているが、『近世高士傳』や著作集から省略されているので、記録しておこう。なお、旧字は新字に改めた。

昭和七年十二月二十一日の朝、この小篇の原稿をやうやうにして書上げて、印刷所へ送つて帰つた時に、私は郷里の弟の訃報に接して茫然とした。その夜遽かに郷里刈谷に帰つて葬儀を済まし、昨夜二週間ぶりに東京へ戻つて来たら、留守の間にもう初校が来てゐた。年賀状の代りに拵へるつもりであつたこの小冊子は、改めて亡弟を追悼するの意を籠めて出すこととする。
弟名は次郎、東京工学校を出て商工省の臨時窒素研究所に奉職し、その傍ら東京物理学校に通つて同校を卒業したが、卒業後まもなく病を獲て郷里に静養すること六箇年、宿痾は殆ど全く癒えて再び職に就きたいといつてゐた矢先に、図らずもまた脚気を病んで、臥床すること僅か十日にして昨年十二月二十日の午後十一時五十分に永眠した。年を享くること三十歳(略)
昭和八年一月四日 森銑三

柳田守『森銑三ーー書を読む“野武士”ーー』(リブロポート、平成6年10月)には弟の三郎は出てくるが、次郎についての言及はないので、貴重な資料である。

森銑三―書を読む“野武士” (シリーズ民間日本学者)

森銑三―書を読む“野武士” (シリーズ民間日本学者)

*1:若干の異同、増補「為蝶軒関係資料」がある。

*2:第6代関西学院大学図書館長東晋太郎が空襲から守った蔵書群」参照

竹久夢二を語る兼常清佐と小林源太郎

『音楽』(東京音楽学校学友会、大正5年8月)。水の都の古本展でモズブックスから購入。表紙の破れを補修した跡があって、1,000円もするので迷ったが、小林生・兼常生「夢二問答」が載っているので購入。音楽の雑誌に竹久夢二に関する対談が載っているのが面白そうであった。
調べてみると、「兼常生」は兼常清佐。この頃の兼常は、『兼常清佐著作集』別巻(大空社、平成22年1月)の「兼常清佐年譜」によると次のとおり。

明治43年7月 京都帝国大学卒業(哲学専攻)
同年9月 同大大学院入学。研究題目は「ギリシャ思想史」
大正3年 大学院での研究題目を「東洋ノ音楽及言語ノ歴史トソノ物理上心理上ノ構造」に変更
同年2月 京都在住のまま、東京音楽学校邦楽調査掛嘱託を委嘱される。
 4年4月 『大阪朝日新聞』京都附録の「学生の天地」に、大学院生として心理実験に専念する「奇人変人」兼常の日常が取り上げられる。
同年12月 本拠を東京に移し、小石川区上富坂二三いろは館に居を定めた。東京帝大の松本亦太郎研究室での実験、南葵文庫での音楽図書閲覧などを始める。

一方の「小林生」は、画家の小林源太郎である。『兼常清佐著作集』15巻の大正7年6月19日付け佐藤篤子(後の兼常夫人)宛書簡に

1 白樺展覧会を見に行った日の事。(画かきさんの話)
(略)結城素明氏の友人の、あまり有名でない小林といふ画かきさん。小山夫人と小生と立ってゐるのを大変面白く思って、うしろからそっとスケッチにかいたものです。(略)

とあるが、この「小林」について、編者が「行樹社所属の小林源太郎(一八八三〜一九五一)。「夢二問答」(『音楽』七巻八号、大正五年八月)で、兼常と対談している」と注を付している。小林の経歴については、ネットで読める版画堂の「近代日本版画家名鑑」に詳しく書かれている。そこから要約すると、

明治16年 東京生
 41年 東京美術学校日本画科卒*1
 一時友人の織田一磨に誘われて、「パンの会」に参加
明治45年(大正元年) 水島爾保布・小泉勝彌らと「行樹社」を結成

かわじもとたかさんの好きな水島やPippoさんが好きなパンの会に関わる人であった。
対談の内容だが、兼常に「夢二の画の先駆者は誰でせう」と聞かれ、

(略)独断で何でも言つて見るならば、夢二の画自身が或る未来の画の先駆者ですが、そのまた夢二の先駆者と言ふならば、私は一方に小杉未醒小川芋銭の漫画をあげ、一方に一條成美、藤島武二などが『明星』にかいた画をあげ、そして最後にーー此処らが大分独断ですがーー以前の小学読本や英語の読本などの挿画をあげます。も一つ西洋画で行けば、まづスタンランやドガーと言ひたい処です。

と答えている。この辺りの当否は、木股先生に聞かないと分からないところである。

*1:東京美術学校教授荒木寛畝の弟子だったようで、小林は兼常に「あなたは寛畝翁晩年の最愛の弟子でした。それにも係らずあなたは自分の信ずる芸術の発達のためには、それ程の先生の画風に涙を飲んで反抗しました」と言われている。