神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

文庫櫂からもらった書物展望社のレア本?尾原正子『和歌むそち草』

文庫櫂である高額本を買ったおまけに尾原正子『和歌むそち草』(書物展望社昭和16年3月。以下「本書」という)をもらいました。非売品、183頁。歌集なので内容はそれほど面白い本ではないが、国会図書館サーチやCiNii、「日本の古本屋」などでもヒットしない。何部発行されたのか不明だが、入手困難のレア本のようだ。発行されたこと自体は、八木福次郎『書痴斎藤昌三書物展望社』(平凡社、平成18年1月)*1の「書物展望社本一覧」にも記載されている*2。八木が本書を所蔵していたのか、斎藤昌三『書斎随歩』(書物展望社昭和19年3月)*3の出版書目一覧に拠ったかは不明。
著者の尾原については不詳。川村伸秀斎藤昌三書痴の肖像』(晶文社、平成29年6月)にも出てこない。『自筆百人一首』(大日本歌道奨励会昭和10年11月)には「兵庫県 尾原正子 五十五歳」の歌が収録されているが、本書(昭和16年発行)のタイトル「むそち草」つまり「六十路草」と年齢層が合致する。両者には上半身の写真も掲載されていて同一人物と思われ、明治14年生まれということになる。また、本書にはある歌の詞書に「昭和六年五月二十七日小野大人我家に来られ高井の君と三人にて摩耶山に登り記念の為写真など撮影せし時」と、歌の上には「小野利教先生、国字に長じ兼て和歌を能くす」とある。摩耶山は神戸市の山なので、その辺りに住んでいたのだろう。小野はググると播磨山崎藩士族で短歌雑誌『みをつくし』の主宰者。斎藤と尾原の関係も不明で、本書が刊行された時期の『書物展望』を見ても何も言及されていない。単に自費出版の歌集の発行を引き受けたということだろうか。

書痴斎藤昌三と書物展望社

書痴斎藤昌三と書物展望社

*1:ちなみに、架蔵本は日本古書通信社製作の特装私家版、限定20部の7番で城市郎旧蔵書である。

*2:ただし、八木は『書斎随歩』の記載通り『歌集むそち草』としているが、本書の表紙及び本扉は『和歌むそち草』、中扉は『和歌むそぢ草』、奥付は『歌集むそぢ草』である。このブログでは『和歌むそち草』を採用した。

*3:ちなみに、架蔵本は250部限定版で正誤表と「特製本の製作に就て」付き。

小倉時代の森鴎外とメソジスト派牧師金子白夢の交流

古書業界で全集不人気の端的な例として、『鴎外全集』(岩波書店)全38巻が市会で1,000円でも売れないという話がある。「日本の古本屋」で揃いが結構いい値段で出品されているが、実態としては売れないのだろう。置く場所がないとか、必要な巻だけ図書館で読むとか、鴎外は好きだが装丁も楽しめる元版を買うからとか、需用がないのは色々理由があるのだろう。実は私も持っていないのだが、35巻(昭和50年1月)の日記篇は何度読んだか分からない。このブログでも散々ネタにさせていただき、「鴎外日記はもう卒業」と言いたいぐらいである。ところが、『森鴎外研究』9号(和泉書院、平成14年9月)の青田寿美「『鴎外全集』第三十五巻日記索引(人名篇)」をあらためて見てたら、かねてより追いかけている金子白夢の本名金子卯吉を発見して驚いた。
同巻の『小倉日記』から引用してみよう。なお、旧字は新字に改めた。また、「金子」とのみ出てくる箇所は一部のみ引用した。

(明治三十二年七月)
十四日。(略)審美綱領新に成る。春陽堂これを送寄す。
(同年八月)
十日。美以教会牧師金子卯吉審美綱領を携へ来りて質疑す。(略)
(同年九月)
二日。(略)是日金子又至る。その岩村透と旧あるを知る。
(同年十月)
十日。(略)金子来りて審美綱領正誤の艸本成るを告ぐ。予が嘱に依りて作れるなり。(略)
(明治三十三年九月)
八日。(略)夜始て金子に独逸語を授く。
(同年)
十一月一日 (略)夜金子を訪ひて、その母及び妻子を見る。
(明治三十四年四月)
八日。(略)金子卯吉書を留めて柳川に遷り去れり。

鴎外が金子に『審美綱領』(春陽堂明治32年6月)の正誤作成を依頼するほど、親しかったことがわかる。美以(メソジスト)教会牧師の金子ということから、金子白夢と同定してよいだろう。「日本の古本屋」でかぼちゃ堂から入手した金子白夢個人雑誌『全人』終刊記念号(地上社、大正13年10月)の「私の歩んだ道ーー宗教生活の一面」でも確認できる。

学校(青山学院ーー引用者注)を出たのは明治三十一年の春であつた。七月年会の任命を受けて九州のK市に赴任することになつた。(略)五六軒しかない信者の小さい集りを日曜朝夕に済して水曜の晩祈祷会をする外は一寸い/\信者の訪問をすればそれで仕事が済むと云つたやうな生活。(略)三十四年の春K市から転じてY町に行くやうになつた(略)

また、同誌「私の読詩生活」には次のようにある。

私が九州のK市に住んで居つた頃ーーそれは明治三十一年の夏から三十四年の春頃までの間ーーそのK市の東禅寺の老僧に片山文器と云ふ師家があつて『碧巌録』の提唱を公開しておられた。(略)丁度其の頃森鴎外先生が第十二師団の軍医部長としてK市に赴任されて来、鍛冶屋町の借家に住んで居られた。(略)先生の来任を聞いて非常に喜び、先生の赴任早々先生の門を叩いて刺を通じたのであつた。極めて平民的な先生は私のやうなものを歓迎して呉れたのが縁となつて、殆んど毎日のやうに五月蠅く御訪ねしたものであつた、[ママ]片山老師に提唱を聞くやうになつたときも私が其の提唱があると云ふ事を話したので、態々東京の森江書店*1から『碧巌集種電鈔』を二部取り寄せて、それを携へて先生と共に能く東禅寺の門を潜つたものだ。

東禅寺の片山文器は、鴎外の『小倉日記』にも出てくる。

(明治三十三年十一月)
十一日。(略)釈文器碧巖を東禅寺に提唱すること、此日より始まる。文器は片山氏に生る。東禅寺の住職なり。(略)

これで、金子が明治32年から34年にかけて小倉で鴎外と親しく交流していたことが確認できた。もっとも、『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、昭和63年)の金子卯吉の解説(菅原献一執筆)中に「九州小倉で仏教を学び、同地に在住の森鴎外の門を訪れ、その文学に深く傾倒」と書かれていた。
なお、『小倉日記』明治32年9月2日の条に岩村透が出てくるのは、岩村と親しい青山学院長本多庸一との関係からだろう。また、33年9月8日の条で鴎外に独逸語を習っていることについては、「私の読詩生活」に、

私の京町の住ひに福間君(福間博*2ーー引用者注)が訪ねて呉れたのは先生のお宅で遇つた翌日のことであつた。私は福間君に遇ふ以前から独逸語の研究を始めて森鴎外先生に一寸い/\不審を正して居つたのであつたが、福間君が私の宅に来るやうになつてから独逸語に対する興味は非常な速力を以て進んで行つたものである。

とある。33年11月1日の条に金子の「母及び妻子」が出てくる。おそらくはこれも金子白夢だろうが、長男で後にモダニズム詩人折戸彫夫となる金子玄は明治36年生まれなのでこの時点では生まれていない。
(参考)「大空詩人永井叔とその時代」「金子白夢牧師の新生会

*1:尖端的な森江書店」参照

*2:明治32年10月12日の条に登場する。

昭和15年和紙研究会主催第二回昔の和紙展観目録

藤堂祐範編『第二回昔の和紙展観目録』(和紙研究会、昭和15年4月)。編纂兼発行者の藤堂の住所は、京都市東山区林下町信重院内。twitterによると1月大阪古書会館で拾ったようだ。多分シルヴァン書房出品で500円位だったか。表紙にはタイトルのほか、「昭和十五年四月十三日龍谷大學圖書館にて」「主催和紙研究会」とある。10頁の小冊子。和紙研究会の同人として、新村出、藤堂祐範、禿氏祐蘒、中村直勝、上村六郎、大澤忍、壽岳文章の7名が挙がっている。「西本願寺大谷家に傅はれる繪奉書千代紙類に就て」によれば、14年4月古い和紙百余種を展観したところ予期以上の成功を見た。同年秋大谷家に伝わる華麗な種々の紙を一覧させていただき、展観の許可を得たので今回の展観を行うこととなったという。目録には大谷家所蔵の49点の和紙のほか、参考品14点があげられている。特に越前五箇村産出の物が多いという。
和紙そのものには余り関心はないが、趣味人や同人誌には関心があるので、この和紙研究会も調べてみたいものである。ちょうど15日(土)14時から長岡京市立中央公民館でNPO法人向日庵公開研究発表会として、
「昭和初期の向日町と文化人」玉城玲子(向日市文化資料館館長)
「『和紙研究』解読」田村正(京都工芸繊維大学非常勤講師)
が開催されるようだ。予約不要、参加費資料代1,000円(正会員・友の会会員は無料)。ただ、私は人文研の「1968年と宗教ーー全共闘以後の「革命」のゆくえ」を聞きに行きたいので残念(´・_・`)
なお、チラシによれば、昭和11年秋京大楽友会館で開催された「紙に関する座談会」を機に和紙研究会発足。当初の同人は上記のうち中村でなく牧野信之介となっているほかは同じである。また、『和紙研究』を昭和14年に創刊している。

講談社の三木章と画家田中比左良

先月の寸葉会では講談社婦人倶楽部の三木章宛田中比左良(世田谷区松原町)の葉書を。田中は漫画家・挿絵画家とぐらいしか知らない。かわじもとたか『続装丁家で探す本追補・訂正版』(杉並けやき出版、平成30年6月)によれば、江戸川乱歩『恐怖王』(文藝圖書出版社、昭和27年8月)など98冊の装丁本があるようだ。現代ユウモア全集13巻『田中比左良集』(現代ユウモア全集刊行会、昭和4年)はよく見かけるが持っていない。『田中比左良展:昭和モダンとユーモア』(岐阜県美術館、平成2年)をみると、昭和3年から『主婦之友』に連載した「モガ子とモボ郎」がよく知られているようだ。葉書は、昭和31年5月15日の消印で、印刷の文面は、
・昨晩遠路来会いただいたことへの御礼
・皆のこうした好意は自分の新工房に新しい勇気と希望燃焼の大きな料となること
などが書かれている。前掲図録の年譜には、昭和34年4月世田谷区松原町の自宅に田中比佐良デザインアトリエを設置とあるが、31年段階の「新工房」についての記載はない。
一方の三木は、昭和12年講談社入社。三木と田中の関係はよくわからないが、図録の年譜によると、田中は戦前から講談社の『講談倶楽部』に描いているので、戦前からの知り合いだったかもしれない。今回三木宛葉書を一枚見つけたが、おそらく三木の旧蔵書や他の書簡も古書市場に出ているのだろう。後に『小説現代』の初代編集長や講談社専務となり、『わがこころの作家:ある編集者の青春』(三一書房、平成元年9月)という著作もある三木なので著名作家からの書簡とかを掘り出したいものである*1
追記:令和元年11月1日・2日東京愛書会の目録に山田風太郎の三木章宛葉書15枚一括19万円(古書馬燈書房出品)が出ていた。

続装丁家で探す本 追補・訂正版

続装丁家で探す本 追補・訂正版

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 杉並けやき出版
  • 発売日: 2018/07/01
  • メディア: 単行本
わがこころの作家

わがこころの作家

*1:「日本の古本屋」に講談社小説現代三木章宛阿川弘之自筆書簡が出品されている。

臼井書房の臼井喜之介と野薔薇詩社の稗田菫平

文庫櫂で買った稗田菫平宛葉書の中に臼井喜之介のもあったはずだと探して見ると、何枚かありました。そのうち昭和49年の年賀状には、印刷(名前のみ署名)で
・月刊『京都』、俳誌『嵯峨野』、『日本の老舗』、詩誌『詩季』の四誌とともに忙しながら、つつがなく越年
・今年は出版の仕事の閑を見て、書く方にもはげみたいこと
などが書かれている。
臼井と稗田の関係は詩人同士というほかは不明だが、昭和24年(?)7月消印の臼井書房(京都市北白川京大北門前)から富山県西砺波郡子撫村の野薔薇詩社稗田宛葉書には、用命の野薔薇100冊を代金引換小包で発送したことが書かれている。「日本の古本屋」に金沢文圃閣が稗田旧蔵の『野薔薇』を出品してるが、22年9月創刊の雑誌のようだ。おそらく臼井書房が印刷を頼まれたのだろう。
執筆活動にもはげみたいと願った臼井だが、年賀状を出して間もない49年2月22日脳溢血で亡くなった。

昭森社の森谷均人生最後の年賀状

猫猫先生十川信介人生最後の年賀状をアップされていたので、負けじと(?)文庫櫂で入手した昭森社(しょうしんしゃ)の森谷均(もりやひとし)の年賀状を。昭和44年富山県小矢部市の稗田菫平宛である*1。稗田は詩人。文面は印刷で、
・昨年夏初めての手術で約三ヶ月入院したが、その後やや順調に経過していること。
・50年以上の酒とのつきあいは疎遠になったこと。
・今後は『本の手帖』の続刊とのんきな単行本出版に専念すること
が書かれている。その他前年秋朝日新聞記者が紹介したディレッタントの生き方に言及している。この朝日新聞昭和43年9月29日朝刊の「人生を語る(インタビュー)」は、『本の手帖』別冊森谷均追悼文集・昭森社刊行書目総覧(昭森社、昭和45年5月)に収録されていて、「僕は、終生、ディレッタントなんです。知的な浮気者なのかなあ」と答えている。
年賀状ではやや順調に経過していると報告した森谷だが、その後間もなく3月29日に亡くなった。前記『本の手帖』別冊の神原泰「森谷均君におくる弔辞」によると、森谷は「死期近く「どうぞもう二年だけ生かして『本の手帖』の百号を出させて下さい」と神に祈った」という。

*1:昭和41年から43年までの年賀状も入手。

文庫櫂の『雑書目録』第1号

日本橋の文庫櫂から昔の古書目録をいただきました。『雑書目録』第1号、最初で多分最後の古書目録らしい。発行年が書いておらず、店主にも分からないらしい。がむしゃらに頑張ってきたようで、そもそも開業年も20年位前とはっきりしない*1。目録中最も新しい本は18年前の平成12年発行である。「初めての古書目録」とか「品揃えもままならぬうちに見切り発車」とあるので、20年位前の開店後間もなく発行したのだろう。
分類は、書物関係・書物関連雑誌、句集、歌集、詩集、文学、幻想文学・海外文学他、時代小説・推理探偵小説・少年少女小説・大衆小説他、文学雑誌他、風俗・軟派・趣味他、追加雑載で計1985点掲載されている。今の文庫櫂なら詩集か発禁本をトップに持ってくるだろう。
最も高額なのは川端康成『乙女の港』(昭和13年)函付、中原淳一挿絵、初版美本、33万円。すぐ売れただろうか。その他、小栗虫太郎『犯罪心理小説白蟻』(昭和10年)『紅殻駱駝の秘密』(昭和11年)がそれぞれ22万円、24万円。黄瀛の詩集を扱ったことがあると聞いていたが、確かに『詩集瑞枝』(ボン書店、昭和9年)が15万円で挙がっている。
かつて反町茂雄は一流の古書店になるには古書目録の発行が殆ど不可欠の条件と喝破した。ネット全盛時代で紙の目録の発行店は随分減ってしまったと思うが、やはり古書店には目録の発行をできるだけお願いしたいものである。

*1:全国古本屋地図’96改訂新版』には出ていない。