神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和6年の件名簿から見た岐阜県海津郡海西村役場の公文書管理

昨年知恩寺古本まつりでキクオ書店の和本一冊300円(?)コーナーで拾った岐阜県海津郡海西村(現海津市)役場の件名簿。件名簿というのは、役場で受信又は発信した文書について、番号を付与し記録するもので、役場の文書課のような所で管理したと思われる。本書は、「件名簿 岐阜県海津郡海西村役場」と印刷された和紙に、縦書きで、「受発月日番号」、「件名」、「受信先又ハ発議者」欄が印刷されている。記入例を示すと、1月10日第11号は、「件名」欄は「徴兵旅費算出表ニ関スル件」で、「受信先又ハ発議者」欄は内務部とある。この他、番号の横に「回覧」、その下に「麦田」の印。欄外の上部に「完結」の印。おそらく、県の内務部から送られてきた文書に11番の番号を取り、回覧したので処理が完結したという流れだろう。なお、簿冊の表紙や背表紙に簿冊名や作成年の記載はないが、後で述べるように昭和6年の件名簿である。
各月ごとに主な件名を見てみよう。
1月・・・1月6日から始まり、128番まで。28番「道路改修実施申請」は「書記」が発議し、番号の左に「知事宛」とあるので、書記が知事宛に道路改修実施を申請したようだ。ただし、件名の左に「却下」とあるので、申請は認められなかったのだろう。欄外の「完結」印は押されている。37番は「神仏道以外宗教宣布者数報告ノ件」。44番「果実」や45番「蜜蜂」は実際の件名は「××に関スル報告」とかいうものだろうが、手抜きをした記載になっている。58番は高須警察署からの「廃業通知(酌婦?)」、面白そう。121番は「国□千太郎」「〃たい」からの「技芸人届」、届の原本を見てみたいものである。128番は「自転車廃止届」、昔は自転車税なんていうものがあったそうなので、その関係の届だろう。
2月・・・2日から始まり、129番から259番まで。150番は敦賀連隊区司令官からの「軍人軍属遺族鉄道運賃割引ニ干[ママ]スル件」。229番は岐阜地方裁判所からの「陪審員候補者ニ交付印刷物送付ノ件」。
3月・・・3月4日から始まり、260番から429番まで。286番は内務部長からの「メートル法実行調報告ノ件」。382番は敦賀連隊区司令部からの「日露戦役従軍者調」、昭和6年にもなって日露戦争の従軍者について何を調べたのだろうか。番号の横に「即日回答」とある。
4月・・・4月1日から始まり、430番から585番まで。
5月・・・5月2日から始まり、586番から710番まで。641番は、知事宛の「処女会一覧表」。処女会は独身女性の団体。
6月・・・6月1日から始まり、711番から847番まで。736番は「農繁期保育園開設届」。農繁期だけの保育園というのがあったのですな。753番は郡町村会長からの「北支那駐屯派遣中隊ニ関スル件」。788番は内務部長からの「北海道移住者募集印刷物送付ノ件」。
7月・・・7月2日から始まり、848番から979番まで。
8月・・・8月1日から始まり、980番から1090番まで。
9月・・・9月1日から始まり、1091番から1202番まで。
10月・・・10月1日から始まり、1223番から1367番まで。
11月・・・11月2日から始まり、1368番から1465番まで。
12月・・・12月2日から始まり、1466番から1595番まで。
件数の最も多いのが、年度末の3月、次に年度始めの4月。年度の変わり目が一番忙しそうという常識が件名簿からも裏付けられる。ただし、日付の記載がないものも多く、各月ごとの件数は必ずしも正確ではない。
「完結」印は、6月11日773番まではおおむね押されているが、774番以降はまったく押されていない。どうしたのだろうか。また、884番は日本橋区役所からの「各種選挙資格調査照会」だが、この照会の葉書が簿冊に挟まっていた。昭和6年7月3日付けで日本橋区に住み、本籍地が海西村にある某について、「各種議員選挙資格調査上必要ニ付左記各項御調査ノ上必ス本書ヲ以テ折返シ御回答相成度候」とある。海西村役場の6.7.7、第884番の受付印が押され、受け取った役場側が回答する欄、「右記入及回答候成/昭和 年 月 日(貴衙名)」や「日本橋区役所御中」が印刷されている。不思議なのはこの照会書兼回答書の葉書が簿冊に挟まっていることで、日本橋区役所宛に回答はしなかったのだろうか。回答がなければ、日本橋区役所側から催促すると思われるが。催促されて、あわてて葉書を探したが見つからず、別途回答したということか。しかし、件名簿に記載があるか確認したり、件名簿の他の使用者が挟まっているのに気付きそうなものだし、不思議である。いずれにしても杜撰な公文書管理がうかがえる簿冊である。
売れ残ったら処分されるかもしれないので救うつもりで購入。件名に書かれた文書の原本なら価値があるかもしれないが、件名簿、しかも一年だけではあまり価値がなさそうであるが、色々考えさせられる一冊であった。

『北方人』29号にかわじもとたか『続装丁家で探す本 追補・訂正版』の近刊案内

盛厚三氏より『北方人』29号(北方文学研究会)を御恵与いただきました。ありがとうございます。一時期休刊するとの噂もあったが、無理をされない範囲内で長く続けていただきたいものである。
目次は、

創作/御城前のおババ(三) 通雅彦
創作/陀羅尼助丸の秘密(3) 哀神シュナイダー
評論/釧路湿原文学史(10) 盛厚三
書評/北方人の本棚
書誌/装丁挿話(5) かわじ もとたか
近刊案内/かわじもとたか『続装丁家で探す本 追補・訂正版』
編集後記 [K]
表紙画・カット ジャック・カロ

釧路湿原文学史」は、昭和六十年代。カッパ・ノベルスを中心としたノベルズに釧路を舞台とした作品が多く世に出た時期である。ノベルズとしては、島田荘司、夏樹静子、井口民樹、西村京太郎、木谷恭介、斎藤栄が登場。その他、加賀乙彦、佐々木栄松、荒澤勝太郎、伊藤桂一加藤幸子、玉井裕志、近藤泰年、高橋良治らに言及。
「装丁挿話」は、須田国太郎、川島はるよ、水谷清、井口文秀、安本永、福沢一郎、杉浦非水、今村寅士、茂田井武橘外男本の装丁家たち、樺島勝一(椛島勝一)、山川惣治、中村正義、藤牧義夫。茂田井が小栗虫太郎の家に居候していたとか、『犯罪科学』の表紙絵を描いた今村とか面白い話が多い。
かわじさんの近刊案内が特に嬉しい。林哲夫氏の序文付きで、6月20日に『続装丁家で探す本 追補・訂正版』(杉並けやき出版発行・星雲社発売)を刊行。善行堂に置いてもらうと聞いているので、近くの人は善行堂で買いましょう。嬉しい知らせではあるが、実は寂しくなる知らせでもある。十冊目となる本書を最後の本とするとかねてよりおっしゃっているからである。寂しくなるから、十一冊目以降も続けてほしいと言ってはいるのだが、無理も言えない。当面は、『北方人』の連載でお目にかかれるのが救いである。

大正9年大西洋上で日本人に渡されたスエデンボルグ著・鈴木大拙訳『天界と地獄』

昨年善行堂でスエデンボルグ著・鈴木貞太郎(大拙)訳の『天界と地獄』(英国倫敦スエデンボルグ協会、明治43年3月)を購入。善行堂にしては中々いい値段で何やら英文の書き込みもある*1し、講談社文芸文庫から安藤礼二氏の解説付きで刊行されているのでおまけしてほしいところだが、関西人みたいに値切ったりはしないので、言い値で購入。
謎の書き込みは、吉永師匠に相談すると、本書がアメリカのペンシルベニア州ブライン・アタインのAlfred Actonから Kusuichi Onoに「In memory of a pleasant meeting on the Atlantic」として贈られたものであることを示しているらしい。時期の記載はない。本書を贈ったActon(1867-1956)は、アメリカのスウェーデンボルグ派の教会の牧師だそうだ。本書を贈られた小野楠一(?)の方だが、「元図書館員」の書物蔵氏でもありとあらゆる参考図書を駆使してもその正体に到達できないと思われるが、なんとグーグルブックスで検索すると『東洋電機五十年史』(東洋電機製造、昭和44年2月)がヒット。それによると、大正9年4月検査課の技手小野楠一という人物がイギリスのディッカー社に派遣され、アメリカを経由して7月下旬にイギリスに到着している。
また、吉永師匠によると、Actonが属したGeneral churchの年譜にActonが大正9年7月イギリスでの会合に出席したとあるとのこと。これらにより、Kusuichi Onoは東洋電機技手の小野楠一と見てよいだろう。Actonが小野に本書を贈ったのは大西洋上とは限らず、イギリス又はアメリカに上陸後渡した可能性もあるが、船上で渡したと見ておこう。
通常古書への書き込みは古書価にはマイナスだが、古沢和宏『痕跡本のすすめ』(太田出版平成24年1月)で注目されたように本件書き込みのような一つの物語を体現するような書き込みはプラスに働く場合がある*2。個人的にも値段の付けられないほどの価値のある書き込みであった。善行さん、ありがとう。
さて、小野のその後だが、小野と共にイギリスに派遣された鵜飼泰三郎氏の前掲書の「往時の回想」によると、着英直後にひいた風邪がもとで肺疾患にかかったため、大正9年10月帰国の途についた。そして、

(略)帰国を前にして同君は病を押して短期間ながら治工具ゲージ類の設計や使用法などを熱心に調らべて帰ったので、同君は帰社後治工具類などの図面を自ら引いて製作し、その使用法を周知せしめるよう熱心に指導していた。しかしついに病に勝てず一年半余で亡くなったことは誠に遺憾。

前途洋洋とイギリスに渡ったものの、病を得て志半ばで帰国した小野。大西洋を渡る船の中で出会ったアメリカ人の牧師や贈られた一冊の本を病床で思い出すことはあっただろうか。

天界と地獄 (講談社文芸文庫)

天界と地獄 (講談社文芸文庫)

痕跡本のすすめ

痕跡本のすすめ

*1:神保町のキリスト教専門の古書店である友愛書房のラベルも貼られている。

*2:もっとも、真に受けて痕跡本ばかり集めて、後で売る時にトホホとなっても知りません。

『二級河川』19号のトム・リバーフィールド「戦前の東京堂版『出版年鑑』に掲載された訃報一覧」

二級河川』19号(金腐川宴游会)を御恵投いただきました。ありがとうございます。前号に続きゲーム特集で、そちらは関心がないが、リバーフィールド氏の労作「戦前の東京堂版『出版年鑑』に掲載された訃報一覧」を拝読。東京堂から発行*1された『出版年鑑』昭和5年版から18年版までの訃報欄に掲載された886人*2について、出版、新聞、読書、学界、教育、芸術、宗教、政官財、外国の9分野に分類し、名前、ヨミ、肩書、没年月日、年鑑掲載年度、『昭和物故人名録』(日外アソシエーツ)収録の有無、備考を一覧にしたもの。『昭和物故人名録』に収録されていない270人の没年月日が、出版関係者、図書館関係者、青空文庫関係者などにとっては、特に貴重な情報ということになる。いつものことながら、リバーフィールド氏の熱心な取り組みには感心します。
気付いたことを二つ指摘しておこう。
・106頁小林俊三(陸軍軍医少将・医博、昭和17年4月24日没)について「陸軍軍医の将官相当者に該当が無く誤記の可能性あり」としているが、『日本陸軍将官辞典』(芙蓉書房出版、平成13年2月)によると、小林俊三(軍医部)は昭和17年4月24日戦病死、同日陸軍少将に昇任している。
・108頁平田元吉の読みを推定ヨミとして「ひらたげんきち」としているが、「ひらたもときち」が正しいと思われる。『志賀直哉全集』16巻(岩波書店、平成13年2月)の「日記人名注・索引」や「Web NDL Authorities」では「ひらたもときち」としている。『近代心霊学』などの著作や志賀直哉の英語の家庭教師として知られる三高教授である。
戦後発行の『日本出版年鑑』や『出版年鑑』掲載の訃報一覧については、後日公開予定ということなので、そちらも刮目して待ちましょう。あと、戦前の『図書館雑誌』に会員の入会年月と紹介者が挙がっていたと思うけど、あれを会員の五十音順に一覧にしたら面白い気がするがどうだろう。

*1:ただし、昭和17年発行分は『書籍年鑑』として協同出版社から、18年発行分は『日本出版年鑑』として同社から発行

*2:青野友三郎が16年版と17年版に重複記載されているので、実質的には885人

日出新聞記者金子静枝と意匠倶楽部ーー京都市学校歴史博物館における竹居明男先生の講演への補足ーー

先日京都市学校歴史博物館で竹居明男同志社大学名誉教授の講演「『日出新聞』記者金子静枝の奮闘の生涯」を拝聴した。これまで京都関係の事典類に立項されてこなかった金子の研究*1に対する先生の溢れる熱意が伝わる講演で素晴らしいものであった。竹居氏の『『日出新聞』記者金子静枝と明治の京都ーー明治二十一年古美術調査報道記事を中心にーー』(芸艸堂、平成25年11月)は大分前に読んでいて、金子が明治21年日出新聞(『京都新聞』の前身)記者として、九鬼隆一・浜尾新・岡倉覚三・フェノロサらの近畿地方宝物調査に同行したことは覚えていたが、本名が錦二であることや詳しい経歴を忘れていた。講演であらためて金子の詳しい生涯を知ることができた。レジュメに「金子静枝の生涯をたどるーー略年譜(稿)ーー」(以下「年譜」という)が記載され、講演もこれにしたがって説明がなされた。帰宅後、拙ブログ「明治期の京都における染織図案史の修正を迫る『京都図案会誌』を発見」で紹介した『京都図案会誌』に金子が出ているかもしれないと思い調べてみると、年譜に記載のない事績があった。略年譜なので記載を省略したものもあるかもしれないが、紹介しておこう。
・『京都図案会誌』2号、明治37年7月の「時報
「関西美術会総会」と題し、同会第4回総会が6月11日市議事堂で開催され、錦二が評議員の一人に選任された旨の記載がある。年譜では明治34年6月に関西美術会が発会し、幹事となったことは記載されているが、本件は記載がない。
・『京都図案会誌』3号、明治37年9月の「時報
南禅寺畔の顔見会」と題し、7月4日南禅寺畔の旧順正書院で開催された島華水、岡本橘仙らが発起の顔見会に錦二が出席した旨の記載がある。
・同号同欄
「意匠倶楽部」と題し、錦二が意匠倶楽部を設立し、7月15日祇園鳥居本楼で発会式を挙げ、金子を主幹に広岡伊兵衛、伊東陶山を会計に推薦したこと、木下長嘯子の歌仙堂を再興し*2会員が随時会合できるようにする旨の記載がある。レジュメでは「京都意匠倶楽部を興して市内の優逸したる工芸家のみを糾合して月次会を開き」云々の記事*3などは紹介されたが、年譜に意匠倶楽部の設立についての記載はない。なお、金子が明治37年に意匠倶楽部を設立したことは、平光睦子『「工芸」と「美術」のあいだーー明治中期の京都の産業美術ーー』(晃洋書房、平成29年3月)の「「図案家」と「図案」」でも言及されていて、『京都美術協会雑誌』145号、明治38年*4に「意匠倶楽部成る」という記事があるらしい。金子と京都図案会の関係はよくわからない。明治37年の会員名簿(『京都図案会誌』2号)や明治40年の会員名簿(『京都図案』2巻1号)に名前はないが、同誌4巻2号、明治42年2月には訃報が掲載され、「本会の展覧会を始め公私の審査員として公明の審査をなし斯界を益すること多大なりし」とある。
以上、竹居先生の年譜に若干補足してみました。この他、「ざっさくプラス」によると、明治27年の『風俗画報』への寄稿などもあるようで、まだまだ金子については研究の余地がありそうだ。

*1:竹居氏が金子を研究するきっかけとなったのは、昭和55年8月25日北野天満宮の縁日で見つけた「金子静枝」の署名、「金子文庫」の蔵書印がある5冊のスクラップブックで、『日出新聞』の報道記事を貼り付けたものであったという。ちなみに、2万円したらしい。

*2:歌仙堂は金子が当時住んでいた祇園の万寿小路に再建され、その後高台寺円徳院に移築された。竹居著に写真が掲載されている。

*3:香取秀真「金子静枝の伝記」『画説』42号、昭和15年6月。

*4:追記:洲鎌佐智子「京都美術協会雑誌の目録ーー人物編・展覧会編・団体編ーー」『朱雀』10集、京都文化博物館、平成10年3月によると、『京都美術協会雑誌』145号の発行は、正しくは明治37年8月。

木山捷平と内務省検閲官佐伯郁郎

平成16年5月発行の『月の輪書林古書目録』13号は特集「李奉昌不敬事件」予審訊問調書であった。装幀は林哲夫氏。冒頭、木山捷平の『酔いざめ日記』からの引用で始まる。

一九三二(昭和七)年一月八日、金。
朝風呂にゆきひげをそる。午後三時すぎ、農林省営林局に倉橋を訪ね不在。内務省に佐伯を訪ねる。今日観兵式還幸の鹵簿に爆弾を投げし男あり。場所は警視庁前の由。内務省大さわぎなり。巡査が号外、新聞を没収しつつ街をあゆめり。犯人李奉昌

最初にこれを読んだ時は「佐伯」が誰かわからなかったが、講談社文芸文庫版の『酔いざめ日記』を読んでいて、「あっ、検閲官の佐伯郁郎かも」と気付いた。千代田区千代田図書館発行の村山龍「<文学のわかる>検閲官ーー佐伯慎一(郁郎)についてーー」(「内務省委託本」調査レポート第15号)によると、佐伯郁郎(本名・慎一)は、明治34年岩手県生、大正14年3月早稲田大学文学部仏文科卒、15年12月から内務省警保局図書課に勤務していた。
また、佐伯と木山に交流があったことは、林氏のブログ「daily-sumus2」の平成26年2月21日分で紹介された『木山捷平資料集』(清音読書会)掲載の『メクラとチンバ』(天平書院、昭和6年6月)の出版記念会の出席者でわかる。出版記念会の参加者として、倉橋弥一、田中令三、宇野浩二らとともに佐伯の名前があがっている。佐伯と木山がどのように知り合ったかは、今後の研究課題だが、村山氏によると、佐伯の第一詩集『北の貌』(平凡社昭和6年5月)の出版記念会には、神原泰、村野四郎のほか、田中、宇野も出席していたというので、田中や宇野を通じて知り合ったという可能性はある。
なお、吉備路文学館で7月29日(日)まで「没後50年木山捷平展」を開催中である。

明治・大正カトリック著述家筆名考

どこで拾ったか、『望樓』4巻3号*1(ソフィア書院、昭和24年3月)という雑誌がある。増田良二「明治・大正カトリック著述家筆名考」が載っているので購入したもの。同論考は、『公教雑誌』『天主の番兵』『通俗宗教談』『聲』『カトリック』等の諸雑誌から取捨した約340人の筆名について、本名や筆名の由来などを記載した一覧である。『聲』以前の雑誌は概してパリ外国宣教会士の筆になるものが多く、殆ど筆名は用いられていないし、『カトリック』は仰々しい筆名などが流行しなくなった大正期創刊で筆名は非常に少ないので、主として明治・大正期の『聲』に現れたものが大部分という。また、明治・大正・昭和三代にわたり同誌の編集者だった山口鹿三・藤井伯民両氏によると、筆名は殆ど全部が主筆工藤應之氏の命名で、両氏自らのものですらあまり記憶してないとの回答だったので、工藤氏在世中に照会し、大部分は解決し、その回答を基本に一覧を作成、多少増田自身の意見を加えたという。それでも、未詳とされるものも多く、40人以上が未詳とされている。「司書官山田珠樹」で言及した立花國三郎も単に「未詳」とあるだけである。カトリック系雑誌を読む機会がないので、他に私が知った名前もほとんどなく、兒玉花外、波留子・ふさ・ゆかり(木内錠子)ぐらいであった。この一覧は昭和24年段階の調査であるが、その後研究は進んでいるであろうか。

*1:編集後記によると、前号は辻野久憲特集で、殊に若い人達の間に予想以上の歓迎を受けたという。