神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

恩地孝四郎の父恩地轍と上田貞次郎の父上田章

『上田貞次郎日記 明治二十五年ーー三十七年』(上田貞次郎日記刊行会、昭和40年5月)に恩地孝四郎の父恩地轍が出てくる。

(明治三十年三月)
七日 日 旧藩主徳川侯祖先南竜公祭典に付、御殿へ参上、来客に接す。同公年々の祭典は恰も旧藩士諸氏の親睦を温むるの好機を与ふる者[ママ]なり。
余亦是日数多く知人に接するを得。殊に宮内官吏恩地徹[ママ]氏、及ユニテリアン教会会計原権四郎氏は第一見の面なり。恩地氏は我追敬の情に絶えざる亡阿父の親友にして、漢学に達し、元判事たり。今や内大臣秘書官兼侍従職として我皇家の事に参す。広額隆鼻、頭髪鬚髯半白にし、温顔笑ふが如し。今日、余進みて酌を呈するや静かに邸内梅園の花信を問ひ、又上田さん(家兄を指す)の存否を尋ね。其語慇勤苟くも後進を蔑下するの風なし。
余謹みて自ら上田の弟なるを対ふるや氏又、謙遜語を卑ふして語て曰く、私は汝の父様の知遇を受けた者です。新年には阿母様に会ふと思つてお訪ねしましたが、昨年御隠れに成つたさふで大きに不平でありました。と言ひ了りて莞爾として笑ふ。次に余が年令、学校等を問ひ余が将来を祝す。其語容徐々に余輩をして欣慕せしむる者[ママ]あり。又氏は夕刻よりは大抵在宅なればとて余が来遊を促す。其語に曰く、御父様のことに付て沢山話さにやならん云々。
(略)

「恩地徹」となってしまっているが、当時宮内省侍従試補(内大臣秘書官兼務)だった*1恩地轍である。恩地孝四郎の父である轍は、『恩地孝四郎展』(東京国立近代美術館和歌山県立近代美術館、平成28年)の「恩地孝四郎年譜」(三木哲夫編)によれば、

嘉永2年12月16日 現和歌山県橋本市
明治6年 陸軍省に入る
10年 西南戦争で武勲を挙げる
11年 陸軍の裁判事務に従事
20年 司法部検事
24年 孝四郎誕生時は東京区裁判所検事
26年5月 熊本地方裁判所検事
同年12月 第6師団長北白川宮能久親王の知遇を得て、家令となる。
27年1月 東京市麹町区紀尾井町北白川宮家邸内に住む。
28年4月 北白川宮に随従し、台湾に出征
同年10月 北白川宮が台湾で逝去。しばらくして、家令の職を辞す。その後、内大臣秘書官、宮内省式部官となる。
29年 この年か、儒学者谷口藍田を自宅に招き、恩地塾を開く。また、明治天皇から後の朝香宮鳩彦王東久邇宮稔彦王の教育を託され5年間預かる。山内英夫(里見とん)も塾に通ったという。
大正3年8月 退官
昭和3年4月14日 逝去

孝四郎は明治24年7月2日生まれで、同年譜によると貞次郎が轍に会った30年の4月に東京市立番町尋常高等小学校尋常科に入学している。
一方、貞次郎は上田正一『上田貞次郎伝』(泰文館、昭和55年5月)によると、明治12年5月生で、日記の30年の前年に正則予備校を卒業し、高等商業学校へ入学している。父親の上田章は天保4年生で徳川家の家扶だったが、明治14年8月没、妻良(貞次郎の母)も29年3月に亡くなっている。ちなみに、章は「蔵書印データベース」で4件ヒットする。
章と轍とは「親友」だったというが、詳細は不明。轍については、単に恩地孝四郎の父として知られるだけでなく、論文があってもよさそうなものである。和歌山県立博物館あたりで、「恩地轍展」をしてくれないかなあ。
(参考)「上田貞次郎が作った『南葵文庫洋書目録』は今いずこ?

*1:『職員録』(内閣官房局、明治30年12月)による。