神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

竹久夢二と京都の同人雑誌『ひゞき』(響社)

文庫櫂だったか「たにまち月いち古書即売会」で唯書房から拾ったか判然としないが、昨年『ひゞき』*1創刊号(響社、大正7年2月)という京都の同人雑誌を購入。編輯兼発行者は京都市丸山吉水庵室の有田篤太郎、発行所は同吉水庵安養寺内の響社。「響社清規」によると、響社は「詩歌を中心とする藝術結社にして毎月一回雑誌「ひゞき」を発刊」とある。目次の一部のみ紹介しておこう。

表紙絵及裏絵 丘基化人
「サツフオ」に表現されたグリルバルツエルの思想 評論 小田基衛
私の歌論 評論 堤武夫
冬の日の午後 対話 今川生
鐘つく男 短歌 今川漂花
有田侠花氏に 同 一刀正雄
元旦の歌 同 矢澤孝子
お花さん 小唄 福井健夫
晩秋哀歌 短歌 中野幸子
静なる夕 同 中野珀光
夕暮の歌 同 福井健夫
密柑の皮 同 江田雅男
心響 同 茂森唯士
茨の実 同 松波憲二
峡の雪 同 山根浩
冬の色 同 有田侠花
編輯後記 有田侠花

有田の「編輯後記」によれば、

私達は熊本の高等学校時代に「草昧」を発行してゐました。しかし卒業とともに同人が東京と京都と九州の各大学に散つてしまひまして、京大に来たのが漂花と私。熊本時代に「薄明」を発行してゐた。[ママ]化人、雨汀、歌哉と極光*2の同人だつた山根浩とが皆な同じ大学に□ち合つたのでまた/\こゝで「ひゞき」を経営することになりました[。]それに六高時代岡山で水甕に居た小田君、黒正君、中野君、江田君等が同人として加入せられ一大勢力を加へてひゞき社が成立しました。九州大学の憲二と熊本の堤君五高にゐる茂森とがそれ/“\福岡と熊本で応援することになつてゐます。又同志社の河村君と福井君とが同人として社の発展に力をつくして呉れることになりました。

同人で知っているのは「東方社顧問、天羽英二」で言及した茂森だけである。他の同人の学歴を全部確認することはできないので、一部の人に限り調べた。有田と今川漂花(本名今川正と推定)は共に大正6年に第五高等学校大学予科第二部工科卒、京都帝国大学工科大学採鉱冶金学科入学。山根は同年京都帝国大学医科大学医学科入学。皆さん文系かと思ってたが、中核メンバーは意外にも理系ですな。なお、有田の出身は福岡県だが、ネットで見られる「玄洋社員・名簿」に同名の人物がいる。大正12年12月15日31歳で没とあるが、同一人物かは不明。
ところで、有田の「編輯後記」によると、竹久夢二が名誉社友として後援することになり、創刊号の表紙画を書いてもらうことになっていたが、急に岡山に旅行して間に合わなかったという。また、第2号には是非とも夢二の画で表紙を飾ることにするとある*3。石川桂子編『竹久夢二詩画集』(岩波文庫平成28年9月)の「竹久夢二略年譜」を見ると、大正7年1月25日から26日まで北部基督教会(岡山市)で「竹久夢二叙情画小品展覧会」を、2月3日に後楽園鶴鳴館で「夢二作品展覧会」を開催している。より詳しくは坂原冨美代『夢二を変えた女 笠井彦乃』(論創社平成28年6月)の「笠井彦乃・竹久夢二略年譜」を見ると、夢二は大正7年1月9日から展覧会開催のため岡山の大藤方に逗留とある。これが、急な岡山への旅行に当たるのだろう。有田らと夢二がどのようにして知り合ったのかは不明だが、夢二は大正5年11月から京都に住んでいた。同書には同志社大学の学生福井健夫について、「足繁く夢二のところに出入りして、第二回夢二叙情画展覧会*4のマネージャーを務めた」とあり、この福井は響社同人の福井と同一人物だろう。福井を通して夢二とのパイプができたのだろうか。
夢二は、大正7年11月には東京に戻っているので、それまでに『ひゞき』の2号以降が出ていれば、いずれかの号の表紙を夢二が書いている可能性がある。有田は「紙面の都合上翌月号に廻した分があります。私の小説「人の子」も来月号にまはしました」とあり、3月中に発行したかはともかく、2号を出した可能性が高い。果たして、表紙画は夢二だろうか。

竹久夢二詩画集 (岩波文庫)

竹久夢二詩画集 (岩波文庫)

夢二を変えた女(ひと) 笠井彦乃

夢二を変えた女(ひと) 笠井彦乃

*1:表紙には『ヒビキ』とあるが、『ひゞき』が正しいと思われる。

*2:『ひゞき』創刊号には、『一粒の麦』(極光改題)2年2号(極光社)の広告が載っている。

*3:このほか、夢二には「岡島狂花氏や西氏、稲田氏、前田氏等に御紹介頂いてゐる」とある。「稲田氏」は『夢二日記』2巻(筑摩書房、昭和62年7月)の「登場人物注」にある「稲田秀爾。かかりつけの耳鼻科医」か。「前田氏」は前田夕暮かどうか。「西氏」は不明。木股知史先生や山田俊幸先生ならわかるだろうか。

*4:京都府立図書館で大正7年4月11日から20日まで開催された。