神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

谷沢永一が桑原蔵書問題に喝!?

昨年文庫櫂で買った『千稜』創刊号(関西大学文化部、昭和25年11月)。冒頭に学長岡野留次郎「文化祭に際して」、学友会委員長東浦栄一「文化誌"千稜"発行と"文化祭"挙行によせて」と文化部長土屋雅信「文化祭に寄せて」が掲載されている。これらによると、本誌は従来6月に開催されていたが秋に開催されることになった昭和25年度の文化祭を記念して発行されたものである。40頁、関西大学謡曲部「船弁慶」と題した小冊子もはさみこまれている。
さて、前記挨拶文に続き実質的に巻頭に掲げられたのが、谷沢永一の「桑原武夫『文学入門』について」である。谷沢の所属は「文芸部」となっている。内容は、まず鈴木成高が日本では小説の題に「門」をつけるとよく売れ、その故智に学んだのか「何々入門」というのがやたらに多いと述べたことを枕にしている。そして、入門書の例として桑原武夫『文学入門』を取り上げている。後年の谷沢はそれほど分かりにくい文章は書かなかったと思うが、この投稿は読みにくかった。しかし、

(略)桑原の思考方法が、生活的日常の次元にとどまるものであり、従つて、人生と文学との相関関係の解明という意図の善意が、方法意識の放擲により、結局現象の分類に終つていることが観取され得よう。「読書法入門」ではなく」[ママ]文学入門」である以上、文学をほかならぬ文学として、他のすべてに対して独立的に存在させている、決定的要素としての文学的内在律が、主体的に解明されない以上、論理は表面的に終らざるを得ないのだ。

とあるので、批判しているようだ。
先日大阪古書会館の古本市で拾った『谷沢永一博士略年譜・書目』(谷沢永一名誉教授を偲ぶ会、平成23年5月)*1によると、谷沢は、

昭和4年6月27日 大阪市西成区
22年4月 関西大学予科入学
23年4月 大阪学生文学部連盟を創設、初代委員長に就任
同年6月 大阪学生文学部連盟機関誌『学生文芸』を創刊、編集発行人となる。
25年1月 同人雑誌『えんぴつ』を創刊
同月中旬 森下辰夫が帝塚山学院女子高校の校舎の片隅を借りて開いていたフランス語の私塾で、開高健と出会う。同月25日発行の『生存者』(港詩人クラブ)第2号より同人に参加。

『千稜』に執筆したのは、満21歳。その若さでこれだけの文章が書けたのは、さすが谷沢である。この寄稿だが、森さんにtwitterで御教示いただいたが、浦西和彦編『人物書誌体系13谷沢永一』(日外アソシエーツ、昭和61年7月)では、未確認としつつ、昭和23年、19歳の作品としてしまっている。また、『千稜』の発行を10月としている。浦西にしても本誌は入手できなかったわけだ。調べてみると、関西大学図書館も含めて、どこの図書館にも残っていない貴重な雑誌である。将来谷沢永一展が開催される時にはわしのを貸してあげないといかんなあ。
ところで、桑原武夫というと昨年蔵書の廃棄が問題になった。書砦・梁山泊島元健作氏の講演をまとめた冊子『桑原蔵書問題 古本屋はこう考える』(森編集事務所)も発行されたところである。谷沢が生きていたら、桑原蔵書問題についてどのような意見を述べていただろうか。

*1:最近浦西和彦旧蔵書が出品されているが、これも浦西旧蔵かもしれない。