神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

武林無想庵の渡仏を助けた京都初の洋画商三角堂の薄田晴彦

『洛味』(洛味社)も総目次が待たれる雑誌だが、289集(昭和51年10月)に島岡剣石「武林無想庵と京都」を発見。島岡は詩人で、京見峠に歌碑がある。『京の文学碑めぐり』(京都新聞社、昭和56年12月)によると、島岡は明治40年天理市生まれ。姫路高、京大で文学にとりつかれたという。「武林無想庵と京都」によれば、日の出新聞(京都新聞の前身)で社会面の整理を担当していた時、社会部記者から、比叡山で無想庵が自炊しながらゾラの翻訳に悩んでいるのを発見したと報告してきたという。文豪の落泊の姿に心を動かされた島岡は無想庵の激励会を開催。無想庵はしばらく島岡の家に奇寓*1、ある時和歌を書いてくれた。

のたれ死ぬ 父とも知らず
イヴオンヌは 学校へゆく
イヴオンヌ哀れ

この和歌を読んで島岡は無想庵をパリにいる娘のイヴォンヌに会わせてあげたいと考え、河原町三条にあった京都初の洋画商三角堂の店主薄田晴彦に相談。薄田が人肌脱いでやろうということになり、無想庵は渡仏。大阪へ向かう無想庵を見送ったのは島岡と蓮田だけだったという。
島岡は時期を明記しておらず、また、無想庵は何度か渡仏と帰国を繰り返しているので、時期は特定しがたい。しかし、
・『むさうあん物語』別冊(無想庵の会、昭和37年7月)の柴浅茅「余白片々草」には、昭和12年初夏頃満洲の新京にいた柴の所へ大阪の川田順から無想庵が行くからよろしくと手紙が来て、無想庵をもてなした際にほぼ同様の和歌*2を書いてもらったとあること
・島岡はその頃の無想庵は妻の文子と離婚沙汰があり、娘をフランスに残したまま帰国と書いているが、無想庵が文子から離婚を申し込まれて承諾したのは昭和10年10月であること
・島岡は無想庵が平凡社依頼のゾラの翻訳を引き受けたものの片方の眼が極度に衰弱して一向に仕事が進まなかったと書いているが、無想庵は昭和8年6月右眼緑内障の手術を受けたが成功せず、右眼が全く見えなくなっていたこと*3
から、昭和9年から昭和12年までの滞日中の話と推定しておく。ただし、山本夏彦『無想庵物語』(文藝春秋、平成元年10月)には「旅費はまたしても川田順が出してくれた」とあるので、旅費の一部か旅費以外の支援だったのかもしれない。
さて、この京都初の洋画商三角堂だが、瀬木慎一・桂木紫穂編著『日本美術の社会史』(里文出版、平成15年6月)の大河内菊雄「関西の洋画商(戦前)」に出てくる。それによると、明治43年11月三角屋(みかどや)として三条河原町西入で開店。後に三角堂と改名、戦争末期まで続いたという。創業者は薄田長彦(おさひこ)で、文久3年岡山の東中山下生、大正14年没。店は長男晴彦(明治18年生、昭和57年没)にうけつがれたとあるので、無想庵を見送った時は数え53歳だということになる。大河内は「わが国で最初の本格的な洋画商はこの京都の三角堂であるといえよう」と書いているが、そのような人だからこそ無想庵の渡仏を支援してくれたのだろう。
長彦の三男についても判明したことを記録しておこう。『日本美術工芸』397号、昭和46年10月の「二つの話題」に「三十七年ぶりにひらかれた個展」と題して、画壇ぎらいの画家薄田芳彦が京都府立文化芸術会館で開いた個展を紹介している。芳彦は、明治31年岡山市生まれで、三角堂の三男。小学校一年の時から京都に来て育ち、京都一中を経て京都市立絵画専門学校で日本画を学ぶが、洋画の魅力に引かれ中退。上野の美校洋画部に入学し二科展に出品したりしたが、一年で中退。野間仁根、伊藤廉らと童顔社をつくり、三年ほどグループ展で活動、帝展*4にも出品したが、昭和9年頃の個展を最後に表に出なくなったという。ググると、一昨年文化芸術会館で「孤高の洋画家 薄田芳彦遺作展」が開催されたようだ。これは見たかった。
名前は覚えたので、三角堂や薄田親子にはまた出会う機会がありそうだ。と、書いたそばから見つかった。倉敷市編著『倉敷市薄田泣菫宛書簡集文化人篇』(八木書店古書出版部、平成28年3月)所収の大正7年1月26日付け満谷国四郎書簡がそれである。

(略)
あの時話した大阪でやる個人展覧のことをだまつて居ても悪いから長彦(薄田)氏に一寸話したら一人で飲み込んで居た 処へ方友会の売画が好景気なので先生あせり立つて来月十日頃ニ増田氏を利用して大に展覧会をやるつもりで其の時には小生の考を利用するらしい口ふんで言ふて来た
(略)

注には「薄田長彦(一八六三〜一九二五)は関西の洋画商。岡山生まれで、明治四三年に京都で三角堂(当時は三角屋)を開業する」とある。
また、グーグルブックスで見つけたが『劉生絵日記』3巻の大正13年4月22日の条に三角堂の若主人が出てくる。

無想庵物語

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日本美術の社会史―縄文期から近代の市場へ

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倉敷市蔵 薄田泣菫宛書簡集 文化人篇

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*1:無想庵も明治39年から1年間京都新聞(現在の京都新聞とは無関係)の社員だったので島岡とは話が合ったかもれない。なお、「無想庵」は京都新聞時代に初めて使った雅号。

*2:「のたれ死ぬ父とは知らずいそいそと/学校へ通ふイヴォンヌ哀れ」とあり、微妙に異なる。

*3:以上の無想庵に関する事項は『むさうあん物語』別冊の「武林無想庵略歴」を参考にした。

*4:文展・帝展・新文展日展全出品目録』(日展、平成2年3月)によると、昭和3年の第9回帝展に「花さす娘」を、昭和8年の第14回帝展に「桃子」を出品。