神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

350冊もあった小菅刑務所内の橘孝三郎文庫

河上肇の『獄中日記』を読んでたら、同じ小菅刑務所に入っていた橘孝三郎が出てきた。

(昭和十一年)
十一月一日(日)
(略)四十五房の橘孝三郎氏(略)同氏の室には図書が天井へ届くほど三、四列に積み上げてあり、身辺の小卓には大きな外国語の辞書が載せられたりしてゐる。凡そ三百五十冊位は這入つてゐるだらうとの話。「日本の百姓はほんとに可哀さうですからね。私は百姓のために是非書きますよ。百姓のために書かずには居られないのだ。」かういふのが同氏の談片だとのこと。その心事に私は多大の同情と敬意を有つ。しかし偉大なる頭脳の持主カール・マルクスが蔵書の極めて豊富な英国博物館で長い間勉強した成果を全く顧みないで、こんな不自由な所でーーたとひ何百冊の本を身辺に置くにしろーー独自の考を繰り出さう[と]してゐると云ふことは、一つの悲劇的なドンキホーテたるを免れない。

刑務所で何百冊もの本に囲まれた囚人というのは、戦前の監獄に対するイメージとはほど遠い。しかし、この橘のケースは例外で、松沢哲成橘孝三郎 日本ファシズム原始回帰論派』(三一書房、昭和47年3月)によると、「刑務所長からとくに許可されて、独房のなかにうずたかく内外の書を積」んでいたという。
橘も若い頃は、岡田式静坐法に熱中した一人で、同書によると、大正3年11月静坐により神秘主義的回心を経験し、一高の卒業を目前とした翌年、「単なる究理の世界には自分の住むべき世界はない」として中退したという。刑務所では、河上の日記にあるように、静坐よりも読書に専念していたようだ。同書によると、河上の日記で言及された昭和11年11月の前月には、フレーザーの『金枝篇』(フランス文)を読んでいたようだ。刑務所に差し入れてもらう書籍の入手に当たっては、昭和13年5月8日付け穴沢清次郎宛橘徳次郎(次兄)の書簡に「書籍店の方は、古本屋一誠堂はかねかねのとりつけに候へば、此の方に命ずべく候」とあり、神保町の一誠堂が使われたという。