神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

峰村教平と創立期の璽宇

峰村教平の篁道大教は、昭和16年、世界紅卍会道院の関係者で心霊研究家の小田秀人、大島豊、道院信者で棋士呉清源らのグループが合流した際、璽宇に改称されたという*1。その年の状況が真崎甚三郎の日記*2に出ている。

昭和16年2月19日 小田秀人十三字[ママ]に来訪。赤坂丹後町に(ママ)峰村某実業に失敗し信仰の後神の啓示を得るに至り事毎に驚くべく適中すとて、予を引出し一度現状を視察せしめんとせり。予は俄に信じ難く承諾を与へず。

    3月6日 関田、只左二郎九時過に来訪。只左氏明日より北支に赴くとて挨拶に来り、峯村某(小田氏の勧めし者と同人)に会見を勧む。関田君は田中は大川と縁切れず、見込なしと慨嘆しあり。

    6月27日 山本八時に来訪、例の神懸りにて峯村某並に名古屋の安藤辰巳氏等の神懸りと会見したるもの[の]如く、秋田の森林を開けば地下に財物ありとか、安藤は岐阜に大油田ありとか其を信じあるが如く、予は安藤より予宛の手紙の次第を告げ、暗に深入りをせざる様戒めしも通ぜし風なし。

注:[ ]は、校訂者による註記。カタカナをひらがなに改めた。

「山本」は山本英輔と思われる。ただし、山本が戦後書いた『真理の光』には峰村は出てこない*3。なお、「璽」の脚の部分は、創立時は「王」だが、戦後長岡良子が「玉」に改めたという*4

ところで、この峰村教平、「宮内省怪文書事件」にも名前が出てくる。怪文書『牧野内大臣、関屋宮内次官、東久世内匠頭等の大逆不敬事件』には、

元老松方正義がまだノサバツテ居た大正十年乃至十一年の事、当時東京の居住して居た長野県人嶺(ママ)村恭(ママ)平なる者が、多年北海道に生活せしことに依りて有利なる立木地帯の所在に通じて居た。彼は早くより日高国新冠御料牧場内にある約四千町歩の森林地区に着眼して大正十年其の払下げ運動を起したが万事意の如く進まず家産の大半を蕩尽してしまつたのである。
茲に於て、一策を案じたる嶺村は配下某を使つて同地立木が払下げ許可となつた如く同地附近から東京に送信させ、当時日魯実業会社に副社長たりし友人の田辺熊一を誘惑して同社から巨額八十万円の金を引出さしめた。彼等は之れを元老松方正義、時の宮内大臣牧野伸顕、市木乙彦其他宮内省の巨頭連に贈賄して払下げ運動の成功を約したのである。

とある。牧野の宮内大臣は大正10年2月〜14年3月、関屋貞三郎の宮内次官は大正10年3月〜昭和8年2月、東久世秀雄の内匠頭は大正13年4月〜昭和6年
また、大正15年8月17日付東京地方裁判所検事局検事の市木からの聴取書によると、市木は大正8年4月〜11年6月まで日魯実業株式会社の社長。大正7年頃、峯村教平が新冠御料林立木払下げの予約をし、その資金の貸与を日魯実業株式会社に申し込み、8年5、6月頃会社より60万円を貸し付けたという。同一人物との確証はないが、この後篁道大教を創立したのだろう。

(参考)宮内省怪文書事件については、2009年8月10日参照。

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副田義也編『内務省の歴史社会学』(東京大学出版会)の「6章内務省の映画検閲」を読んだりした。

内務省の歴史社会学

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*1:新宗教教団・人物事典』

*2:引用に当たり、カタカナをひらがなに改めた。

*3:2008年4月9日参照

*4:梅原正紀「璽宇」『新宗教の世界Ⅳ』大蔵出版、昭和53年12月