秋庭太郎の晩年を探ってみる。読売新聞昭和54年8月20日夕刊の「<永井荷風の考証三部作>をめぐって 秋庭太郎さんと1時間」によると、
「(略)あとは青年時代からの夢だった僧侶の生活に入り、浄土宗の本山で修業のあと、堂守りなどして一人静かにすごしたい」
と語っている。また、19年前*1に得度した秋庭の法名は光信だったという。念願の堂守りだが、結局その夢はかなわなかったらしい。宮岸泰治『ドラマが見える時』(影書房、1992年1月)によると、
[秋庭]氏を訪ねたのは、その本[『新考永井荷風』1983年3月]の出た直後の桜の季節である。(略)そのまま氏と同道で南禅寺へ向かったのだが、車中、氏は堂守りになるつもりが、その年齢では朝夕のお勤めも自信なく、やむなくふつうの部屋を借りての起居となったと話された。(略)
その年の秋、氏の入院を知らせる簡単なはがきが、弟さんの名前で届けられた。それには京都を引き払って東京で入院加療中のこと、見舞いその他の心配は一切無用のことなど、氏の意向が伝えてあった。
前記読売新聞で「妻なく子なく家もなく」が口ぐせだったという秋庭だが、荷風のような死に方はできなかったようである。
(参考)今月18日
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「古本予定表」に、5月8・9日の西部古書会館の彩古会が漏れている。
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「宇崎純一展」→「http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001004190001」
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世田谷文学館の星新一展のイベント(4月29日・30日分)追加申し込みの受付。連休中首都圏にいる人はあまりいないか→「http://www.setabun.or.jp/news/42930.html」
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読売の「SFはいま」は最終回で「現実化した これからが旬」。東京創元社の年刊日本SF傑作選と早川のゼロ年代SF傑作選の紹介。大森氏は「SFが現実になった時代だからこそ、人間がどうかかわり、どう変わるのか、小説の形で考えることが重要になる」とコメント。しかし、「これからがSFの旬だ」といわれても、おっさんになったのでもはやSFは読まないオタどんである。