神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

国家主義者赤神良譲と藤澤親雄


建部遯吾は政治学者、樺俊雄は哲学者、安田三郎は民俗学者かと思ってた(汗
それはさておき、『近代日本社会学者小伝−書誌的考察−』で「環境社会学の幻の創始者」とされた赤神良譲(あかがみよしつぐ。1892−1953)。


坪内祐三三茶日記』(本の雑誌社、2001年10月)1998年1月10日の条によると、

夕方帰宅後、まず、「回想の文芸科」という副題を持つ藤川能『わが巨匠たち』(緑地社昭和五十六年)に目を通す。副題にあるように、戦前の明治大学文芸科を、当時学生だった著者が回想したもの。その頃の同科のスタッフが、とてつもなく豪華だったことは、知る人ぞ知る。山本有三学科長のもと横光利一小林秀雄萩原朔太郎舟橋聖一久保田万太郎阿部知二今日出海米川正夫などといった人々が教鞭をとった。(略)
その他にも赤神良譲(『猟奇の社会相』『キッスとダンスと自殺の学説』他)や板垣鷹穂(『芸術的現代の諸相』『観想の玩具』他)といった尖端的な教授たちがいたのだから。


板垣鷹穂については、ちょうど『彷書月刊』で特集が組まれたところだね。坪内祐三は赤神良譲にも関心があるようだ。


『近代日本社会学者小伝』によると、赤神の略歴は、


 明治25年 10月30日新潟県三島郡
 大正8年 東京帝国大学文学部社会学科卒業(卒論題目は「理想国の研究」)、助手となり社会学研究室に勤務
 大正10年 明治大学政治経済学部講師
 大正12年 東京帝国大学法学部政治学科卒業、明治大学政治経済学部教授に昇進
 大正15年 社会学政治学の研究のためフランス、ドイツに留学(昭和3年まで)
 昭和15年 明治大学政治経済学部長(昭和21年まで)
 昭和28年 4月6日没(61歳)


これでは、赤神と明治大学文芸科との関係はわからなかった。ちなみに、山本が明治大学文科専門部文芸科長だったのは、昭和7年4月から12年4月まで。


竹内洋佐藤卓己編『日本主義的教養の時代』(柏書房、2006年2月)「第六章 日本主義的社会学の提唱 赤神良譲の学術論」(石田あゆう)によれば、赤神は「一九三〇年二月十一日に結成された、愛国政党としては大日本生産党に次ぐ勢力を有した愛国勤労党の中央委員であり、同時に明大興国同志会会長として活躍した」という。国家主義者としての赤神の方が、私の関心領域に属するタイプだ。これまで東京帝国大学早稲田大学、慶応大学のトンデモ系の人間を追いかけてきたが、次は明治大学のトンデモ系に迫るか(笑