神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

堺利彦と「例の会」

佐々木味津三大正14年6月17日付読売新聞に書いた「新日本主義断片(上)」によると、

その頃吾々不逞日本人の間に、尤も中に支那人は二人、朝鮮人が一人交つてはゐたが、とにかく吾々不逞学生の間に、誰が名付親だつたか「例の会」といふ少しばかり穏やかでない集まりがあつた。会員は都下の私立大学の学生ばかりで、中心になつてゐた人々は、先の大杉栄氏、今の堺利彦氏、それから山川均氏に高畠素之先輩、毛色の少し変つたところで馬場孤蝶先生に山崎今朝弥米国伯爵といつたやうなお歴々であつたが、その第何回目かの集まりが四谷の堀やす子氏邸で催された時のことである。(略)なんでも主義の前に人種観念があるかないか、といふやうなことが議論の骨子だつたやうに記憶するが、私達明大側は人種観念があるといふ説、早大側はないと言ふ説で、其時明大側として出席してゐた者は、今の明大助教授村瀬武比古、同じく講師にして今洋行中の関未代策、それから現山陽新報政治部長の貞頼卓男にかくいふ私、早大側では大化会の茂木久平君に当年の青年論客、今は新進作家中の逸物尾崎士郎といつたやうな面々であつたが(略)
一上一下、枝から枝をうんで盛に湯気を立てゝゐるところへひよつくり顔を見せられたのが安成貞雄氏である。(或は御舎弟二郎氏だつたと言ふ気もするが)

「例の会」というのは、私は他の文献で見た覚えがない。年譜によれば、佐々木は大正4年9月明治大学政経科入学、7年7月卒。『明治大学一覧』によれば、佐々木、村瀬、関、貞頼の四人とも同年政治科卒。尾崎は年譜によれば、大正5年4月早稲田大学予科政治科入学、6年9月本科政治経済科に進学、8年1月除籍。茂木は早大政治経済科卒とする文献もあるが、黒岩比佐子さんの『パンとペン』にある中退説の方が正しいようだ。「例の会」の開催時期は、尾崎が早大に入学した大正5年4月以降で、佐々木が明大を卒業した7年7月までの期間内ということになる。

(参考)大正5年〜7年の大杉栄・堀保子の動向を大杉豊『日録・大杉栄伝』で見ると、
    大正5年3月3日 保子は逗子を引上げ、四谷区南伊賀町四十一に借家
       11月8日 日蔭茶屋事件(大杉が神近市子に刺される)
       12月19日 保子との離婚が正式に決まる
      6年2月17日 大杉が明大「駿台文芸講演会」で講演。文芸部員だった佐々木が呼んだもの。