神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『田中恭吉日記』にひそめる宮武辰夫

6月18日の地震では、オタどん邸の被害はほぼゼロでした。ほとんどの本は段ボールや衣装ケースに入れてあるか、床に積んであるので元々落下しようがない状態です。それでも、積んである本の上部が数ヶ所崩れていました。
さて、宮武辰夫という人物については、「『南木芳太郎日記』に宮武辰夫氏出版記念会」や「原始藝術品蒐集者にして幼年美術研究者だった宮武辰夫のもう一つの顔」で紹介したところである。ところが、恩地孝四郎竹久夢二、田中恭吉らと交流のある人物とは気付いていなかった。今、それぞれの年譜から宮武に関する箇所を拾ってみると、

明治43年4月7日 恩地孝四郎東京美術学校予備科西洋画科志望に入学。同級生に宮武辰夫らがいた*1
44年6月 恩地が竹久夢二・田中順之輔・久本DON[信男]・宮武と『都会スケッチ』(26日発行、洛陽堂)を刊行*2
45年3月21日 夢二主宰雑誌『桜さく国 紅桃の巻』(洛陽堂)刊行。恩地、久本、恭吉、宮武が同人として執筆*3
45年4月上旬 恭吉が夢二・宮武の住む上野倶楽部(下谷区上野花園町一番地)に下宿を移す*4
大正3年11月中旬頃 恩地が両親と別れひとりで上野倶楽部45号室に住む*5

何とまあ、宮武は恩地や恭吉と共に夢二主宰の雑誌の同人だったり、下宿仲間だったのだ。恭吉の日記については、現在木股知史先生が翻刻を進めていて、いずれ刊行されると思われるが、宮武辰夫が登場するのだろうなあ。

田中恭吉 ひそめるもの

田中恭吉 ひそめるもの

*1:恩地孝四郎展』(東京国立近代美術館和歌山県立近代美術館、2016)の「恩地孝四郎年譜」

*2:同上

*3:『生誕120年詩人画家竹久夢二展』(世田谷文学館、2004)の「竹久夢二年譜」

*4:『田中恭吉 ひそめるもの』(玲風書房、2012)の「田中恭吉年譜」

*5:恩地孝四郎展』

竹久夢二と京都の同人雑誌『ひゞき』(響社)

文庫櫂だったか「たにまち月いち古書即売会」で唯書房から拾ったか判然としないが、昨年『ひゞき』*1創刊号(響社、大正7年2月)という京都の同人雑誌を購入。編輯兼発行者は京都市丸山吉水庵室の有田篤太郎、発行所は同吉水庵安養寺内の響社。「響社清規」によると、響社は「詩歌を中心とする藝術結社にして毎月一回雑誌「ひゞき」を発刊」とある。目次の一部のみ紹介しておこう。

表紙絵及裏絵 丘基化人
「サツフオ」に表現されたグリルバルツエルの思想 評論 小田基衛
私の歌論 評論 堤武夫
冬の日の午後 対話 今川生
鐘つく男 短歌 今川漂花
有田侠花氏に 同 一刀正雄
元旦の歌 同 矢澤孝子
お花さん 小唄 福井健夫
晩秋哀歌 短歌 中野幸子
静なる夕 同 中野珀光
夕暮の歌 同 福井健夫
密柑の皮 同 江田雅男
心響 同 茂森唯士
茨の実 同 松波憲二
峡の雪 同 山根浩
冬の色 同 有田侠花
編輯後記 有田侠花

有田の「編輯後記」によれば、

私達は熊本の高等学校時代に「草昧」を発行してゐました。しかし卒業とともに同人が東京と京都と九州の各大学に散つてしまひまして、京大に来たのが漂花と私。熊本時代に「薄明」を発行してゐた。[ママ]化人、雨汀、歌哉と極光*2の同人だつた山根浩とが皆な同じ大学に□ち合つたのでまた/\こゝで「ひゞき」を経営することになりました[。]それに六高時代岡山で水甕に居た小田君、黒正君、中野君、江田君等が同人として加入せられ一大勢力を加へてひゞき社が成立しました。九州大学の憲二と熊本の堤君五高にゐる茂森とがそれ/“\福岡と熊本で応援することになつてゐます。又同志社の河村君と福井君とが同人として社の発展に力をつくして呉れることになりました。

同人で知っているのは「東方社顧問、天羽英二」で言及した茂森だけである。他の同人の学歴を全部確認することはできないので、一部の人に限り調べた。有田と今川漂花(本名今川正と推定)は共に大正6年に第五高等学校大学予科第二部工科卒、京都帝国大学工科大学採鉱冶金学科入学。山根は同年京都帝国大学医科大学医学科入学。皆さん文系かと思ってたが、中核メンバーは意外にも理系ですな。なお、有田の出身は福岡県だが、ネットで見られる「玄洋社員・名簿」に同名の人物がいる。大正12年12月15日31歳で没とあるが、同一人物かは不明。
ところで、有田の「編輯後記」によると、竹久夢二が名誉社友として後援することになり、創刊号の表紙画を書いてもらうことになっていたが、急に岡山に旅行して間に合わなかったという。また、第2号には是非とも夢二の画で表紙を飾ることにするとある*3。石川桂子編『竹久夢二詩画集』(岩波文庫平成28年9月)の「竹久夢二略年譜」を見ると、大正7年1月25日から26日まで北部基督教会(岡山市)で「竹久夢二叙情画小品展覧会」を、2月3日に後楽園鶴鳴館で「夢二作品展覧会」を開催している。より詳しくは坂原冨美代『夢二を変えた女 笠井彦乃』(論創社平成28年6月)の「笠井彦乃・竹久夢二略年譜」を見ると、夢二は大正7年1月9日から展覧会開催のため岡山の大藤方に逗留とある。これが、急な岡山への旅行に当たるのだろう。有田らと夢二がどのようにして知り合ったのかは不明だが、夢二は大正5年11月から京都に住んでいた。同書には同志社大学の学生福井健夫について、「足繁く夢二のところに出入りして、第二回夢二叙情画展覧会*4のマネージャーを務めた」とあり、この福井は響社同人の福井と同一人物だろう。福井を通して夢二とのパイプができたのだろうか。
夢二は、大正7年11月には東京に戻っているので、それまでに『ひゞき』の2号以降が出ていれば、いずれかの号の表紙を夢二が書いている可能性がある。有田は「紙面の都合上翌月号に廻した分があります。私の小説「人の子」も来月号にまはしました」とあり、3月中に発行したかはともかく、2号を出した可能性が高い。果たして、表紙画は夢二だろうか。

竹久夢二詩画集 (岩波文庫)

竹久夢二詩画集 (岩波文庫)

夢二を変えた女(ひと) 笠井彦乃

夢二を変えた女(ひと) 笠井彦乃

*1:表紙には『ヒビキ』とあるが、『ひゞき』が正しいと思われる。

*2:『ひゞき』創刊号には、『一粒の麦』(極光改題)2年2号(極光社)の広告が載っている。

*3:このほか、夢二には「岡島狂花氏や西氏、稲田氏、前田氏等に御紹介頂いてゐる」とある。「稲田氏」は『夢二日記』2巻(筑摩書房、昭和62年7月)の「登場人物注」にある「稲田秀爾。かかりつけの耳鼻科医」か。「前田氏」は前田夕暮かどうか。「西氏」は不明。木股知史先生や山田俊幸先生ならわかるだろうか。

*4:京都府立図書館で大正7年4月11日から20日まで開催された。

クライン文庫の古書目録『クラインの壺』

古書店も閉店するとすぐに忘れられてしまう。勿論例外的に伝説として残る古書店もあることにはあるが、極一部に限られる。大阪にあったクライン文庫も四天王寺の古本まつりなどででよく拾えた古書店ではあったが、閉店して数年たち、もはや話題になることもないようだ。昨年下鴨の納涼古本まつりだったと思うが、その懐かしいクライン文庫の目録を拾った。『クラインの壺』2号(クライン文庫、1995年11月)である。68頁、2318点の古書が収録されている。池崎書店出品で100円。
「あとがきにかえて」によれば、クライン文庫は古本屋になって1年が過ぎたとあるので、1994年開業である。住所は大阪市都島区都島中通3丁目*1。古書の分類は、幻想文学の周辺、小説(純文学・大衆文学を含む)、推理・時代小説、評論・随筆・エッセイ・その他、詩・俳句・短歌、本の本・その周辺、雑学といろいろ、芸術・映画・音楽・演劇、太陽・ユリイカ・雑誌関係、絶版マンガの周辺となっている。1番目はマンディアルグ著・澁澤龍彦訳『城の中のイギリス人』(白水社、昭和57年)。米倉斎加年銅版画『黒ミサの女』サイン入り一葉入、限定200完本、米倉・澁澤両者署名入、帙・外函少痛で13万円。本目録中で最高の値段である。最近は澁澤も売れないらしいが、今だったら幾らだろうか。
目録のほか、特別企画として座談会「21世紀の古本屋」が載っている。出席者は、松宮邦生氏(松宮書店)、古川敏正氏(クライン文庫)、嶽本野ばら氏、西尾俊一氏(バー、フェネガンズ・ウェイク店長)、上念省三氏(大学図書館員)、進行役はライターの柳井愛一氏。古川氏の発言。

古書組合に入っている古本屋さんが、コンピューターネットワークを使うことを真剣に考えているんです。なぜかというと、新しいタイプの古本屋がどんどんできているんです。郊外型のフランチャイズシステムの大型店舗で、大量にリサイクル本を買ってきて流通させるので、僕らのような個人商店と違って古書組合に入る必要はない。個人経営が中心だった古書業界にとっては脅威ですよね。コンピューターネットワーク等もふくめて、なんらかの対応策が必要なのです。

時代を感じさせる発言である。古書組合によるネットの「日本の古本屋」も始まり、ネット専門店も組合に加入できるようになり、新古書店はどんどん撤退していく状況でその後の情勢は大きく変動している。クライン文庫が古本屋として戻ってくることはないと思われるが、お元気にされておられるだろうか。

*1:その後、籠目舎・光国屋書店と梅田古書倶楽部をやったり、日本橋に移転したり、ネット中心になったりした。

蔵書票コレクター原野賢吉

関西学院大学博物館では「ポスターでたどる戦前の新劇展」を7月21日(土)まで開催中。同博物館は瞠目すべき展覧会が多く、2015年10月19日-12月12日に開催された「蔵書票(本を彩る版画)を愛した男ーー蒐集家原野賢吉の軌跡ーー」も非常に良かった。関西学院大学は2007年に原野賢吉(1922-2014)からコレクション「芥舟文庫」の寄贈を受け、2度コレクション展を開催。2回の展示を踏まえ、原野が蔵書票を蒐集するようになった経緯やその活動、そして蔵書票以外にも関心を寄せた趣味のものに触れることで蒐集家としての原野の足跡を辿る展覧会を開催したわけである*1。59頁の図録はお得な700円で販売中。売り切れて古書価が付く前に買っておきませう。目次は、

ごあいさつ
展覧会の概説 蔵書票を愛した男ーー蒐集家原野賢吉の軌跡ーー 高木香奈子
図版
Ⅰ部 蔵書票を愛した男
蔵書票豆知識1 蔵書票とは
蔵書票との出会い
日本の作家に制作依頼した原野蔵書票
蝶の蔵書票
原野賢吉制作の版画と蔵書票
蔵書票豆知識2 蔵書票の入手の仕方
原野賢吉自作の蔵書票集
蔵書票豆知識3 蔵書票集と書票暦
日本蔵票会発行の蔵書票集
日本蔵書票協会発行の蔵書票集
日本書票協会発行の蔵書票集
日本書票協会発行の書票暦
原野賢吉編纂の蔵書票書目
Ⅱ部 蒐集家の書斎 芥舟文庫
版画
推理小説
豆本
資料
参考図版
版式の説明
作家紹介
作品リスト
参考文献

私は2冊買って、山高登氏の蔵書票が載っていたので、ちょうど九濃文庫の「山高登 装丁作品展」の後京都に寄っていたかわじもとたか氏に1冊差し上げた。もっとも、蔵書票まで手が回りませんとおっしゃっていた。
なお、原野の蔵書票は関西学院大学博物館のホームページから見られる→「http://museum.kwansei.ac.jp/works/category/art/harano

*1:図録の高木香奈子「展覧会の概説」による。

東洋民俗博物館の九十九豊勝と足立史談会の福島憲太郎

寸葉会*1で入手した九十九豊勝(奈良県生駒郡伏見村あやめ池畔)宛の年賀状。差出人は東京市足立区千住阿原町の福島憲太郎。昭和12年の年賀状で、裏面には「千住小板絵馬・丑」の字と黒い牛の版画が印刷されている。
九十九豊勝については、山口昌男内田魯庵山脈』などを見られたい。フレデリック・スタールの通訳をしたり、あやめ池畔で東洋民俗博物館を開設していた。
福島憲太郎については、中野三敏・後藤憲二共編『近代蔵書印譜』五編(青裳堂書店、平成19年2月)に蔵書印が収録され、その解説によると、

福島憲太郎 平成十二年六月十四日没、年九十八。足立史談会の重鎮として活躍、特に俳人巣兆とその周辺の古書収集で知られ、巣兆俳書のコレクションはほゞ完璧ではあったが没後市場に売り立てられ、散逸。

なお、「蔵書印データベース」でその蔵書印「憲太楼蔵書」が見られる。この福島と年賀状の差出人である福島は同一人物と見てよいだろう。寸葉会には九十九宛書簡が何回か出て、私は他にも九十九宛葉書を入手しているので、気がむいたらブログにアップしよう。

*1:京都で開催される絵葉書を中心とした紙ものの即売会

恩地孝四郎の父恩地轍と上田貞次郎の父上田章

『上田貞次郎日記 明治二十五年ーー三十七年』(上田貞次郎日記刊行会、昭和40年5月)に恩地孝四郎の父恩地轍が出てくる。

(明治三十年三月)
七日 日 旧藩主徳川侯祖先南竜公祭典に付、御殿へ参上、来客に接す。同公年々の祭典は恰も旧藩士諸氏の親睦を温むるの好機を与ふる者[ママ]なり。
余亦是日数多く知人に接するを得。殊に宮内官吏恩地徹[ママ]氏、及ユニテリアン教会会計原権四郎氏は第一見の面なり。恩地氏は我追敬の情に絶えざる亡阿父の親友にして、漢学に達し、元判事たり。今や内大臣秘書官兼侍従職として我皇家の事に参す。広額隆鼻、頭髪鬚髯半白にし、温顔笑ふが如し。今日、余進みて酌を呈するや静かに邸内梅園の花信を問ひ、又上田さん(家兄を指す)の存否を尋ね。其語慇勤苟くも後進を蔑下するの風なし。
余謹みて自ら上田の弟なるを対ふるや氏又、謙遜語を卑ふして語て曰く、私は汝の父様の知遇を受けた者です。新年には阿母様に会ふと思つてお訪ねしましたが、昨年御隠れに成つたさふで大きに不平でありました。と言ひ了りて莞爾として笑ふ。次に余が年令、学校等を問ひ余が将来を祝す。其語容徐々に余輩をして欣慕せしむる者[ママ]あり。又氏は夕刻よりは大抵在宅なればとて余が来遊を促す。其語に曰く、御父様のことに付て沢山話さにやならん云々。
(略)

「恩地徹」となってしまっているが、当時宮内省侍従試補(内大臣秘書官兼務)だった*1恩地轍である。恩地孝四郎の父である轍は、『恩地孝四郎展』(東京国立近代美術館和歌山県立近代美術館、平成28年)の「恩地孝四郎年譜」(三木哲夫編)によれば、

嘉永2年12月16日 現和歌山県橋本市
明治6年 陸軍省に入る
10年 西南戦争で武勲を挙げる
11年 陸軍の裁判事務に従事
20年 司法部検事
24年 孝四郎誕生時は東京区裁判所検事
26年5月 熊本地方裁判所検事
同年12月 第6師団長北白川宮能久親王の知遇を得て、家令となる。
27年1月 東京市麹町区紀尾井町北白川宮家邸内に住む。
28年4月 北白川宮に随従し、台湾に出征
同年10月 北白川宮が台湾で逝去。しばらくして、家令の職を辞す。その後、内大臣秘書官、宮内省式部官となる。
29年 この年か、儒学者谷口藍田を自宅に招き、恩地塾を開く。また、明治天皇から後の朝香宮鳩彦王東久邇宮稔彦王の教育を託され5年間預かる。山内英夫(里見とん)も塾に通ったという。
大正3年8月 退官
昭和3年4月14日 逝去

孝四郎は明治24年7月2日生まれで、同年譜によると貞次郎が轍に会った30年の4月に東京市立番町尋常高等小学校尋常科に入学している。
一方、貞次郎は上田正一『上田貞次郎伝』(泰文館、昭和55年5月)によると、明治12年5月生で、日記の30年の前年に正則予備校を卒業し、高等商業学校へ入学している。父親の上田章は天保4年生で徳川家の家扶だったが、明治14年8月没、妻良(貞次郎の母)も29年3月に亡くなっている。ちなみに、章は「蔵書印データベース」で4件ヒットする。
章と轍とは「親友」だったというが、詳細は不明。轍については、単に恩地孝四郎の父として知られるだけでなく、論文があってもよさそうなものである。和歌山県立博物館あたりで、「恩地轍展」をしてくれないかなあ。
(参考)「上田貞次郎が作った『南葵文庫洋書目録』は今いずこ?

*1:『職員録』(内閣官房局、明治30年12月)による。

発禁になったオッペケペー節ーー永嶺重敏『オッペケペー節と明治』(文春新書)を読んでーー

名著『<読書国民>の誕生』(日本エディタースクール出版部、平成16年3月)で知られる永嶺重敏氏の『オッペケペー節と明治』(文春新書、平成30年1月)を拝読。地方新聞掲載のオッペケペー節に関する記事を丹念に拾っていてさすが永嶺氏と唸らせるものがある。気付いたことを指摘しておこう。
200頁で『中央新聞』明治24年11月19日が引かれている。

オツペケペー節とヤツツケロ節 当時流行のオツペケペー節ヤツツケロ節等の中には官吏侮辱のものもあり各寄席には在来の連中に書生風の者交り且壮士風を真似する事流行する事なるが是亦侮辱の嫌ひあるもの往々あるを以て流行歌及各寄席へ巡査を派して取締る事に定めたりと聞く

これを読んで、オッペケペー節を唄本などにしたものも取り締まられたのではないかと、斎藤昌三編『現代筆禍文献大年表』(粋古堂書店、昭和7年11月)を見ると、2点ありました。

新作おッぺけぺーぶし(安) 山形県 柄澤常次郎 明治26年3月
ヲツペケペツポブシ 一枚 広島市 中村利三郎 明治33年2月

永嶺氏によると、オッペケペーブームは明治24、25年頃がピークだったというので、明治25年以前の発禁の事例があってもよさそうだ。永嶺氏がオッペケペー節を流行歌の一つとして集めた明治24年発行の音曲集を『つめ引文句』など6点あげているが、このようにタイトルに「オッペケペー」の文字が含まれないものの中に発禁になったものがあるかもしれない。なお、永嶺氏があげた6点の音曲集は斎藤本には記載されていない。
また、オッペケペー節は日清戦争をきっかけとして明治27、28年頃に替え歌という形で再び人々に歌われるようになった*1が、それ以降はまた下火になったという。斎藤本によると、明治33年発行の一枚物で発禁になったものがあるようなので、同年でもまだある程度人気があったことがうかがわれる。
ちなみに、ヤッツケロ節の方は、斎藤本には『関西魁新聞』(名古屋)大正12年5月12日第210002号「やっつけろ節」があがっているだけである。
以上、発禁の視点から補足してみました。

*1:国会図書館が所蔵する三遊亭志う鶴『日本大勝利日清事件時世節並ニヲッペケブシ』(沖金次郎)もこの例だと思われるが、国会図書館サーチでは明治17年12月発行となってしまっている。