尾崎秀樹『夢いまだ成らず 評伝山中峯太郎』によると、山中は小さい時から透視力や予知能力を備えていた。そして、船井梅南に会ったことがあるという。
阿南の父は、大いに関心を示し、牛込に住む観相家の船井梅南を紹介してくれた。峯太郎と阿南は、この船井梅南から骨相学、占星術などについて学理的な話を聞き、なんとなく分ったような気持になった。
「阿南」は、山中と陸軍中央幼年学校で同期だった阿南惟幾少尉。船井については「野口復堂と船井梅南」参照。前記記事は、明治40年から43年の間の出来事とされている。そのころ既に船井は観相家として活動していたことになる。そうすると、西田幾多郎の日記明治38年9月5日の条に「催眠術及心相学をなす人」とある船井*1と同一人物のような気がしてきた。
(参考)船井は、明治41年7月から42年7月にかけて『商業界』に「全国実業家及び本誌読者の骨相と運命の判断」などを執筆している。
*1:「明治36年前後の催眠術ブーム(その1)」参照。