神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正期には日本に上陸していたホメオパシー

新聞の一面にホメオパシーに関する記事が昨今載るようになった。このホメオパシーがいつ日本に上陸したかは知らないが、少なくとも大正6年にはその薬を飲んでいた人物がいる。エロシェンコ像で知られる中村彝である。大正6年10月19日付小熊虎之助宛書簡*1によると、

私には今、あのホメオパシーと言ふ文字が何かバテレンの神秘的な秘法の様に響きます。私は当分今までの薬を止しませう。何もかもこの学派の方針と命令に従つてやりませう。

翌月2日付伊原元治宛書簡には、「この頃は医師の薬を廃して「ホメオパシー」学派の薬を飲んで居ります(五日許り前から)」とあるので、10月下旬から飲み始めたようだ。結果が良かったようで、11月7日付小熊宛書簡には、

どうも薬がきいたらしく、皆なからも「僕の顔色や元気がこの頃違つて来た様だ」と言はれます。ほんとに不思議ですね。僕の主治医は「ホメオパシー」なんて要するに迷信だと申して居りますが、事実は争はれませんからね。この間医師に見て貰つた折、「この頃は大分いゝ」と言つて居りました。現に熱も咳も大層減りました。(略)あと二三週間も持続して見なければ断言は出来ませんが、私は毎日心窃に君の好意とこの薬の発明者とに感謝して居ります。(略)東洋人の食療法としてはこのゴマと玄米とが一番いゝと言つてしきりに進める人があるので、僕もこの頃はこの「玄米」を試みる事にしました。

中村は、それまでに岡田式静坐法や巣鴨の至誠殿などにも手を出していたようだが、ホメオパシーもしばらく続けることになる。7年10月13日付小熊宛書簡には、

それから例のホメオパシー。君がその研究をして呉れるのは非常に嬉しい。どうか充分に深く研究して僕にもその知識の一部を教授して呉れ給へ。僕はほんとに待つてゐるのですから。

中村は結核だったのだが、結核に対するホメオパシーの薬とはどんなものだったのだろうか。この後は専門医の治療を受けるようになるが、13年12月24日喀血して永眠。

*1:以下引用する書簡は、『藝術の無限感』所収。