神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

知られざる大アジア主義ネットワーク


秋田雨雀日記』に出てくるポール・リシャールなる人物については、8月13日に言及したところ。ma-tango氏が新宿中村屋に言及していたことに、刺激を受けた。
同日記には、次のような記述もある。


大正8年10月19日 けさ、大杉君からの紹介の安南人陳君がきた。鳴海、藤森の三君といっしょに安南の話をした。民族自決にしげきされてフランス国会に建議文を送るその仏文をポール・リシャールにたのんでくれということであった。八木さわ子に紹介文を書いた。


   10月21日 安南人陳君の文章を日本文にしてやった。


「大杉君」とは、ほぼ確実に大杉栄である。
八木さわ子は、『日本近代文学大事典』によれば、明治26年4月生まれ、大正10年アテネ・フランセを卒業した後、母校で教鞭をとった仏文学者。この頃、リシャールは、大川周明とともに千駄ヶ谷に住んでいたはずなので、依頼通りにリシャールに紹介することは可能だったはずだが、八木を紹介したということは、秋田とリシャールの関係は切れていたか。


最近、角川文庫になった森達也『クォン・デ ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー』によれば、ベトナム最後の王朝グェンの始祖グェン・フック・アインの直系11代目のクォン・デが、大正4年に再来日している。「陳君」がベトナム民族運動にどの程度関係していたかわからないが、リシャールと接触を図ろうとしていたとは興味深い。


また、大川とリシャールについては、大川の大正7年6月(推定)日不明の佐藤雄能宛書簡によると、野尻湖畔で大川とリシャール夫人とで、粛慎王の王子とパプチャップ将軍の遺児にフランス語を教えているとある。


更に言えば、宮崎、と言っても、宮崎虎之助ではなく、宮崎滔天の方だが、『宮崎兄弟伝完結篇』264・265頁に、大正8年4月時点で、滔天が、未見の人ではあったが、リシャールのアジア連盟論に共鳴していたことが記されている。


中島岳志氏や森達也氏も知らない、大アジア主義ネットワークがポール・リシャールの周囲に存在したのかもしれない。