神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

青木育志・青木俊造『青木嵩山堂ーー明治期の総合出版社ーー』の「年次別出版物一覧」への補足

ついこの間出たと思っていた青木育志・青木俊造『青木嵩山堂ーー明治期の総合出版社ーー』(アジア・ユーラシア総合研究所、平成29年9月)。取り上げないうちに、1年以上経過してしまった。本書の圧巻は865点1382冊にのぼる「年次別出版物一覧」(以下「一覧」という)である。図書館・個人の所蔵で実物が確認できるもの、『明治書籍総目録』・『大正書籍総目録』記載のものや発行年月など奥付の詳細情報のある書籍に記載あるものを対象にしたという。一覧には発行年の記載はあるが発行月日の記載のない書籍もあがっているので、もしかしたら古書目録等の情報も活用されているのかもしれない。発行月日の記載がない場合が多い古書目録だが、出版物の全貌をつかもうと思ったら、かわじもとたかさんの古書目録を縦横無尽に駆使した著作のように丹念に古書目録の記載情報を収集するというのも選択肢の一つであろう。
さて、架蔵の本で一覧に記載のないものがあるので、記録しておこう。

川邑房次郎編『生花水揚の秘伝』明治37年7月7日3版 ※発行者が青木恒三郎でなく、なぜか川邑である。国会図書館所蔵の石原孫一郎編『日本西洋生花水揚の秘伝』(石原孫一郎、明治20年7月)と同一内容
矢谷重芳編『(独吟自在)薩摩琵琶歌ーー音譜附』明治45年4月5日6版

青木嵩山堂 (明治期の総合出版社)

青木嵩山堂 (明治期の総合出版社)

すが秀実・木藤亮太『アナキスト民俗学』(筑摩書房)に「神保町系オタオタ日記」が出ていたとは!

先日は人文研の公開シンポジウム「1968年と宗教ーー全共闘以後の「革命」のゆくえーー」をのぞいてきました。栗田英彦先生が張り切っていて、当初司会者の予定だったのを自分もコメントしたり参加者側に回りたいとのことで、司会を對馬路人先生にお願いしておられた。各先生の講演は持ち時間30分では収まらない程濃密な内容でレジュメも精緻な物、更に津村喬氏の特別参加もあったりした。最後の質疑応答で東京から日帰りで来ていた研究者が「来た甲斐がありました」と感謝していたが、参加者は皆そう思っただろう。
さて、個人的にも嬉しい出来事がありました。講演者の一人であるすが*1秀実先生が栗田先生を通してわざわざ挨拶に来られて、「神保町系オタオタ日記」を著書『アナキスト民俗学ーー尊皇の官僚・柳田国男ーー』(筑摩書房、2017年4月)で引用させていただいたとのことでした。お役に立てて光栄でした。論文や著書で引用されたものは全部自力で見つけていたと思っていましたが、気付かないものもあるようだ。
同書の352-354頁で拙ブログの「柳田國男と満川亀太郎」に言及している部分を引用してみよう。

(略)以下に紹介する長谷川雄一、C・W・Aスピルマン、福家崇洋編『満川亀太郎日記』(二〇一一年)からの柳田にかかわる抜粋は、すでにブログ「神保町系オタオタ日記」に紹介があり、貴重な注記もあって参照されたいが、ここではブログの若干の誤記を正し、省略部分を補った。また、文中(ママ)は、同ブログの注記。(略)
(略)
ブログ「神保町系オタオタ日記」の筆者も言うように、「行地社」と柳田とのかかわりが示されている資料の登場は、これが最初ではなかろうか。(略)

引用していただくといつも思うが、「神保町系オタオタ日記」というふざけたタイトルではなく、もう少しまともなものにしておけばよかったと反省してます。「秋葉系オタ」に対抗して古本好きの「神保町系オタ」、更に「オタオタする」という意味を加えて、「神保町系オタオタ日記」と名付けました。我ながら秀逸なタイトルを付けたと最初は思っていたのですが、拙ブログを活用する研究が増えてくると、よくぞこんなふざけたタイトルのブログを活字で引用してくれたものだとすまなく思ったりしてます。すが先生、本当にありがとうございました。

アナキスト民俗学: 尊皇の官僚・柳田国男 (筑摩選書)

アナキスト民俗学: 尊皇の官僚・柳田国男 (筑摩選書)

*1:本来は糸偏に圭

竹岡書店の均一台で拾った森銑三が亡き弟次郎に捧げた『鈴木為蝶軒』

買った古本を紹介する間もなく次から次へと新たな本を買って、積ん読本が溜まるばかりである。今回は、8月の下鴨納涼古本まつりで竹岡書店の均一台から拾った小冊子を紹介。均一台では、背表紙にタイトルのない本特に雑誌や本と本との間に挟まって見落とされやすい小冊子を重点的にチェックしている。こういうものの中にどこの図書館にも無い本とか誰も見た事が無い本が紛れているからである。そうしたら見つけたのは、『鈴木為蝶軒』という22頁の小冊子、奥付はない。見返しに「昭和八年一月 森銑三」とあって、「ウォー」と思い確保。
鈴木武助(為蝶軒)は、下野黒羽藩の家老であった。調べて見ると、文章は『近世高士傳』(黄河書院、昭和17年)に収録され*1、『森銑三著作集』8巻にも収録されている。同巻の「編集後記」には、「昭和八年一月に私家版を知人に配り、のち『近世高士傳』に収録」とある。この「私家版」が私が拾った冊子ということになる。森の知人が本書を旧蔵していたことになるのだろうが、蔵書印などはない。竹岡書店の均一台には上原専禄の旧蔵書も出ていた*2が、森と上原では関係がなさそうだ。
本書の22頁に発行の経緯が記されているが、『近世高士傳』や著作集から省略されているので、記録しておこう。なお、旧字は新字に改めた。

昭和七年十二月二十一日の朝、この小篇の原稿をやうやうにして書上げて、印刷所へ送つて帰つた時に、私は郷里の弟の訃報に接して茫然とした。その夜遽かに郷里刈谷に帰つて葬儀を済まし、昨夜二週間ぶりに東京へ戻つて来たら、留守の間にもう初校が来てゐた。年賀状の代りに拵へるつもりであつたこの小冊子は、改めて亡弟を追悼するの意を籠めて出すこととする。
弟名は次郎、東京工学校を出て商工省の臨時窒素研究所に奉職し、その傍ら東京物理学校に通つて同校を卒業したが、卒業後まもなく病を獲て郷里に静養すること六箇年、宿痾は殆ど全く癒えて再び職に就きたいといつてゐた矢先に、図らずもまた脚気を病んで、臥床すること僅か十日にして昨年十二月二十日の午後十一時五十分に永眠した。年を享くること三十歳(略)
昭和八年一月四日 森銑三

柳田守『森銑三ーー書を読む“野武士”ーー』(リブロポート、平成6年10月)には弟の三郎は出てくるが、次郎についての言及はないので、貴重な資料である。

森銑三―書を読む“野武士” (シリーズ民間日本学者)

森銑三―書を読む“野武士” (シリーズ民間日本学者)

*1:若干の異同、増補「為蝶軒関係資料」がある。

*2:第6代関西学院大学図書館長東晋太郎が空襲から守った蔵書群」参照

竹久夢二を語る兼常清佐と小林源太郎

『音楽』(東京音楽学校学友会、大正5年8月)。水の都の古本展でモズブックスから購入。表紙の破れを補修した跡があって、1,000円もするので迷ったが、小林生・兼常生「夢二問答」が載っているので購入。音楽の雑誌に竹久夢二に関する対談が載っているのが面白そうであった。
調べてみると、「兼常生」は兼常清佐。この頃の兼常は、『兼常清佐著作集』別巻(大空社、平成22年1月)の「兼常清佐年譜」によると次のとおり。

明治43年7月 京都帝国大学卒業(哲学専攻)
同年9月 同大大学院入学。研究題目は「ギリシャ思想史」
大正3年 大学院での研究題目を「東洋ノ音楽及言語ノ歴史トソノ物理上心理上ノ構造」に変更
同年2月 京都在住のまま、東京音楽学校邦楽調査掛嘱託を委嘱される。
 4年4月 『大阪朝日新聞』京都附録の「学生の天地」に、大学院生として心理実験に専念する「奇人変人」兼常の日常が取り上げられる。
同年12月 本拠を東京に移し、小石川区上富坂二三いろは館に居を定めた。東京帝大の松本亦太郎研究室での実験、南葵文庫での音楽図書閲覧などを始める。

一方の「小林生」は、画家の小林源太郎である。『兼常清佐著作集』15巻の大正7年6月19日付け佐藤篤子(後の兼常夫人)宛書簡に

1 白樺展覧会を見に行った日の事。(画かきさんの話)
(略)結城素明氏の友人の、あまり有名でない小林といふ画かきさん。小山夫人と小生と立ってゐるのを大変面白く思って、うしろからそっとスケッチにかいたものです。(略)

とあるが、この「小林」について、編者が「行樹社所属の小林源太郎(一八八三〜一九五一)。「夢二問答」(『音楽』七巻八号、大正五年八月)で、兼常と対談している」と注を付している。小林の経歴については、ネットで読める版画堂の「近代日本版画家名鑑」に詳しく書かれている。そこから要約すると、

明治16年 東京生
 41年 東京美術学校日本画科卒*1
 一時友人の織田一磨に誘われて、「パンの会」に参加
明治45年(大正元年) 水島爾保布・小泉勝彌らと「行樹社」を結成

かわじもとたかさんの好きな水島やPippoさんが好きなパンの会に関わる人であった。
対談の内容だが、兼常に「夢二の画の先駆者は誰でせう」と聞かれ、

(略)独断で何でも言つて見るならば、夢二の画自身が或る未来の画の先駆者ですが、そのまた夢二の先駆者と言ふならば、私は一方に小杉未醒小川芋銭の漫画をあげ、一方に一條成美、藤島武二などが『明星』にかいた画をあげ、そして最後にーー此処らが大分独断ですがーー以前の小学読本や英語の読本などの挿画をあげます。も一つ西洋画で行けば、まづスタンランやドガーと言ひたい処です。

と答えている。この辺りの当否は、木股先生に聞かないと分からないところである。

*1:東京美術学校教授荒木寛畝の弟子だったようで、小林は兼常に「あなたは寛畝翁晩年の最愛の弟子でした。それにも係らずあなたは自分の信ずる芸術の発達のためには、それ程の先生の画風に涙を飲んで反抗しました」と言われている。

文庫櫂からもらった書物展望社のレア本?尾原正子『和歌むそち草』

文庫櫂である高額本を買ったおまけに尾原正子『和歌むそち草』(書物展望社昭和16年3月。以下「本書」という)をもらいました。非売品、183頁。歌集なので内容はそれほど面白い本ではないが、国会図書館サーチやCiNii、「日本の古本屋」などでもヒットしない。何部発行されたのか不明だが、入手困難のレア本のようだ。発行されたこと自体は、八木福次郎『書痴斎藤昌三書物展望社』(平凡社、平成18年1月)*1の「書物展望社本一覧」にも記載されている*2。八木が本書を所蔵していたのか、斎藤昌三『書斎随歩』(書物展望社昭和19年3月)*3の出版書目一覧に拠ったかは不明。
著者の尾原については不詳。川村伸秀斎藤昌三書痴の肖像』(晶文社、平成29年6月)にも出てこない。『自筆百人一首』(大日本歌道奨励会昭和10年11月)には「兵庫県 尾原正子 五十五歳」の歌が収録されているが、本書(昭和16年発行)のタイトル「むそち草」つまり「六十路草」と年齢層が合致する。両者には上半身の写真も掲載されていて同一人物と思われ、明治14年生まれということになる。また、本書にはある歌の詞書に「昭和六年五月二十七日小野大人我家に来られ高井の君と三人にて摩耶山に登り記念の為写真など撮影せし時」と、歌の上には「小野利教先生、国字に長じ兼て和歌を能くす」とある。摩耶山は神戸市の山なので、その辺りに住んでいたのだろう。小野はググると播磨山崎藩士族で短歌雑誌『みをつくし』の主宰者。斎藤と尾原の関係も不明で、本書が刊行された時期の『書物展望』を見ても何も言及されていない。単に自費出版の歌集の発行を引き受けたということだろうか。

書痴斎藤昌三と書物展望社

書痴斎藤昌三と書物展望社

*1:ちなみに、架蔵本は日本古書通信社製作の特装私家版、限定20部の7番で城市郎旧蔵書である。

*2:ただし、八木は『書斎随歩』の記載通り『歌集むそち草』としているが、本書の表紙及び本扉は『和歌むそち草』、中扉は『和歌むそぢ草』、奥付は『歌集むそぢ草』である。このブログでは『和歌むそち草』を採用した。

*3:ちなみに、架蔵本は250部限定版で正誤表と「特製本の製作に就て」付き。

小倉時代の森鴎外とメソジスト派牧師金子白夢の交流

古書業界で全集不人気の端的な例として、『鴎外全集』(岩波書店)全38巻が市会で1,000円でも売れないという話がある。「日本の古本屋」で揃いが結構いい値段で出品されているが、実態としては売れないのだろう。置く場所がないとか、必要な巻だけ図書館で読むとか、鴎外は好きだが装丁も楽しめる元版を買うからとか、需用がないのは色々理由があるのだろう。実は私も持っていないのだが、35巻(昭和50年1月)の日記篇は何度読んだか分からない。このブログでも散々ネタにさせていただき、「鴎外日記はもう卒業」と言いたいぐらいである。ところが、『森鴎外研究』9号(和泉書院、平成14年9月)の青田寿美「『鴎外全集』第三十五巻日記索引(人名篇)」をあらためて見てたら、かねてより追いかけている金子白夢の本名金子卯吉を発見して驚いた。
同巻の『小倉日記』から引用してみよう。なお、旧字は新字に改めた。また、「金子」とのみ出てくる箇所は一部のみ引用した。

(明治三十二年七月)
十四日。(略)審美綱領新に成る。春陽堂これを送寄す。
(同年八月)
十日。美以教会牧師金子卯吉審美綱領を携へ来りて質疑す。(略)
(同年九月)
二日。(略)是日金子又至る。その岩村透と旧あるを知る。
(同年十月)
十日。(略)金子来りて審美綱領正誤の艸本成るを告ぐ。予が嘱に依りて作れるなり。(略)
(明治三十三年九月)
八日。(略)夜始て金子に独逸語を授く。
(同年)
十一月一日 (略)夜金子を訪ひて、その母及び妻子を見る。
(明治三十四年四月)
八日。(略)金子卯吉書を留めて柳川に遷り去れり。

鴎外が金子に『審美綱領』(春陽堂明治32年6月)の正誤作成を依頼するほど、親しかったことがわかる。美以(メソジスト)教会牧師の金子ということから、金子白夢と同定してよいだろう。「日本の古本屋」でかぼちゃ堂から入手した金子白夢個人雑誌『全人』終刊記念号(地上社、大正13年10月)の「私の歩んだ道ーー宗教生活の一面」でも確認できる。

学校(青山学院ーー引用者注)を出たのは明治三十一年の春であつた。七月年会の任命を受けて九州のK市に赴任することになつた。(略)五六軒しかない信者の小さい集りを日曜朝夕に済して水曜の晩祈祷会をする外は一寸い/\信者の訪問をすればそれで仕事が済むと云つたやうな生活。(略)三十四年の春K市から転じてY町に行くやうになつた(略)

また、同誌「私の読詩生活」には次のようにある。

私が九州のK市に住んで居つた頃ーーそれは明治三十一年の夏から三十四年の春頃までの間ーーそのK市の東禅寺の老僧に片山文器と云ふ師家があつて『碧巌録』の提唱を公開しておられた。(略)丁度其の頃森鴎外先生が第十二師団の軍医部長としてK市に赴任されて来、鍛冶屋町の借家に住んで居られた。(略)先生の来任を聞いて非常に喜び、先生の赴任早々先生の門を叩いて刺を通じたのであつた。極めて平民的な先生は私のやうなものを歓迎して呉れたのが縁となつて、殆んど毎日のやうに五月蠅く御訪ねしたものであつた、[ママ]片山老師に提唱を聞くやうになつたときも私が其の提唱があると云ふ事を話したので、態々東京の森江書店*1から『碧巌集種電鈔』を二部取り寄せて、それを携へて先生と共に能く東禅寺の門を潜つたものだ。

東禅寺の片山文器は、鴎外の『小倉日記』にも出てくる。

(明治三十三年十一月)
十一日。(略)釈文器碧巖を東禅寺に提唱すること、此日より始まる。文器は片山氏に生る。東禅寺の住職なり。(略)

これで、金子が明治32年から34年にかけて小倉で鴎外と親しく交流していたことが確認できた。もっとも、『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、昭和63年)の金子卯吉の解説(菅原献一執筆)中に「九州小倉で仏教を学び、同地に在住の森鴎外の門を訪れ、その文学に深く傾倒」と書かれていた。
なお、『小倉日記』明治32年9月2日の条に岩村透が出てくるのは、岩村と親しい青山学院長本多庸一との関係からだろう。また、33年9月8日の条で鴎外に独逸語を習っていることについては、「私の読詩生活」に、

私の京町の住ひに福間君(福間博*2ーー引用者注)が訪ねて呉れたのは先生のお宅で遇つた翌日のことであつた。私は福間君に遇ふ以前から独逸語の研究を始めて森鴎外先生に一寸い/\不審を正して居つたのであつたが、福間君が私の宅に来るやうになつてから独逸語に対する興味は非常な速力を以て進んで行つたものである。

とある。33年11月1日の条に金子の「母及び妻子」が出てくる。おそらくはこれも金子白夢だろうが、長男で後にモダニズム詩人折戸彫夫となる金子玄は明治36年生まれなのでこの時点では生まれていない。
(参考)「大空詩人永井叔とその時代」「金子白夢牧師の新生会

*1:尖端的な森江書店」参照

*2:明治32年10月12日の条に登場する。