神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

谷崎潤一郎詳細年譜の作成者


『公評』で連載中の武田勝彦(早稲田大学名誉教授)「日本橋トポグラフィー」は、
ここ何回かすっかり谷崎潤一郎関係の論考になってしまっている。
少し古い話になるが、3月号の「第16回 谷崎潤一郎の領外帰向」の記述には少し問題があった。

そこで、ここではまず細江光氏の研究に負うところの多い「谷崎潤一郎詳細年譜」に書き込まれたフクの年譜事項をまず拾い上げてみよう。


として、「明治三十八年(一九〇五)/三月末、穂積フクが小間使いとして北村家へ来る。」から始まる事項を引用している。


引用している「谷崎潤一郎詳細年譜」の作成者は明らかに小谷野敦氏だが、明記されていない。故意(はないか)か過失か、困ったものである。まさか、「jun-jun1965」が小谷野氏のこととは気が付かなかったとか。


ただし、第1回からの分*1を全部読んだわけではないので、以前に作成者名を挙げている可能性はある。

*1:平成16年9月号から隔月連載

東方社理事中島健蔵


多川 精一『戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々』(平凡社ライブラリー) によると、中島健蔵は、東方社理事として、昭和19年後半から次第に実質的に社のリーダーシップをとるようになったという。


その中島の具体的活動が、『矢部貞治日記』第4巻に出てきた。

昭和19年7月11日 (前略)今朝中島健蔵君が使者をよこして、会ひたいと言ひ、三時に会ふ約束をしたので、中途で抜けて九段の東方社(野々宮アパート)に行く。要するに話しは参謀本部第一部を背景に仏印や泰やに新しい思想戦をやりたいので協力して呉れとの事で、今までの観念論を一擲してかゝるといふことで趣旨はいゝが、何分忙しいのと、さういふ仕事に適格でないといふ理由で、僕はモラル・サポート以上には出られない旨を返事。 


参考:矢部貞治(4月6日


追記:片山杜秀『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)を見る。三井甲之の『手のひら療治』の話あり(2月26日参照)。