神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

野依秀市を慕う帝都日日新聞の元編集者たち

長谷川渉編の草野心平の年譜によると、

昭和7年5月 宮島資夫夫人麗子の紹介で実業之世界社に入社。高橋亀吉監修『財政経済二十五年史』の編集校正を担当。

  9年5月 『財政経済二十五年史』完結後、実業之世界社から発刊されていた『帝都日日新聞』の編集部に移り、記者として野依秀市社長の「社説」の口述筆記をしたり、他社新聞の批判「新聞戦線」を書いたり、種々の事件の取材記事を書いたりする。

とある。この時期については、草野は『わが青春の記』の「「財政経済二十五年史」編纂」で、

編集長が東大新人会でのリーダー格だった門屋博で、当時は並木博というペンネームをつかっていた。新聞の連載小説といえば小説家が書くものと相場は決まっているが、帝日の連載小説は、いまは釜石の市長になっている鈴木東民が書いた。(略)市長といえば門屋の実弟の島野武は現在は仙台市長だが、当時は「帝日」の顧問弁護士だった。
「歴程」の詩人鳥見迅彦が整理をしていたり、坂本徳松が「新聞戦線」をやったり、校正の私の相棒はテンコクの専門家田辺豊だった。

と書いている。佐藤卓己先生の「天下無敵」によると、編集部には草野の他に、小堀甚二(『文藝戦線』同人、平林たい子の夫、戦後は民主人民連盟事務局長)、小森武(戦後は黄土社、都政調査会を設立し、美濃部知事ブレーン)、樋口見治(戦後に復党し、赤旗編集局日曜版編集長)、山崎一芳(のち東海出版社社長、戦後は新夕刊社長)、長部慶一郎(元新劇俳優、戦後はアド・東京社役員)、島崎蓊助(藤村の三男、プロレタリア美術家同盟員)などもいたという。

草野は、戦後も野依との交際を続けており、日記によると、

昭和30年6月29日 それから晩翠軒の野依秀市の祝宴にでる。三十数名きてゐる。会後、山崎一芳のクルマで、門屋、佐野、坂本徳松、山崎などと一緒に銀座のバアドリアンにゆく。字を書かされる。
         それからみんなで火の車へゆく。

  40年2月12日 12時芝のパークホテルの北京マンションで八十才になった野依秀市をはげます会、当人病気で欠席。十三人あつまる。

草野と野依では、思想的には遠いものがあったと思うが、一人の人間としては野依のことを好きだったのだろう。
なお、yukunokiさんのお手を煩わしたが、草野の書生だった長谷川渉(1934−1993)は、草野と同じいわき市小川町出身で、草野が文京区で居酒屋「火の車」をオープンさせた頃*1から付き合いを深め、作品の筆写や出版社との打ち合わせなどを手伝ったという*2

*1:草野が文京区小石川田町八番地に火の車を開店したのは、昭和27年3月15日。

*2:渉の未亡人花子(60)が、草野心平記念文学館に草野の自筆原稿を寄贈という2001年1月27日付読売新聞福島版による