神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

岡本太郎を小僧呼ばわりした元第一高等学校教授の内藤丈吉

石黒敬七『蚤の市』(大倉書房、昭和10年2月)によると、

昔、一高の数学の教授で、巴里に留学し、そのまゝ巴里美人と出来て、今では二人の児もあり、仏蘭西帰化して、美術学校の横、ボナバルト通りは十二番地に、日本雑貨店を経営し、浮世絵、日本食料品、絵具材料、東洋骨董品等を売つてゐる側ら、東洋語学校の先生もしてゐる。在巴二十数年、今では二代目諏訪老人になりかゝらんとしてゐるが、いつ迄も先生気質が抜けず、商売下手である。(略)
或時、僕が、岡本一平氏の息太郎君と通りがゝりに此の宝の山へよつた事があるが、他にも二三人日本人がゐて、内藤氏が香水等を出して見せてゐると、太郎君が「この香水は何?ウビガンかい?」といつてきくと、内藤氏が「お前みたいな小僧が香水の事をきいて何にする?ソレ見ろ、まだ尻に黄色い卵の殻がついてゐるぢやないか」といつた。

この岡本太郎を小僧呼ばわりした内藤氏、内藤丈吉というが、ググると、大正2年2月パリで撮影された画家たちの集合写真の中で唯一履歴不詳とされている(林洋子「1913年パリ:澤部清五郎と川島理一郎、 そして藤田嗣治http://www10.ocn.ne.jp/~hoshinog/zuroku/z_56_2/index.html)。しかし、上記により元第一高等学校の数学の教授と判明したことになる。『第一高等学校一覧』で確認すると、明治42年12月発行分では数学の教授として理学士内藤丈吉(富山平民)の名前があり、43年12月発行分には外国留学中とある。また、大正6年3月18日付東京朝日新聞には、明治43年以来パリ大学で数学の研究を続けているが、留学期間もとうに切れているのに何と言っても帰国しないと書かれている。女でしくじったクチのようだが、これも一つの生き方か。

座右宝刊行会と後藤真太郎

さて、小谷野敦『里見とん伝』409頁に、1971年末志賀直哉『玄人素人』(座右刊行会)豪華版刊行記念で、志賀の妻康子を慰めるため、志賀家に集まったメンバーとして、阿川弘之や座右宝刊行会の後藤茂樹の名前があがっている。この後藤茂樹だが、座右宝刊行会社長だった後藤真太郎の息子である。

「困った時の『志賀直哉全集』第十六巻「日記人名注・索引」」!によると、

後藤真太郎 ごとうしんたろう 明治28・5・18−昭和29・1・27 後藤市兵衛・鈔夫妻の四男。大正7年、「新しき村」の村内会員となり、会計係を担当。大正8年6月に離村。出版社「座右宝刊行会」社主。美術商。昭和8年より、梅原竜三郎、小林古径坂本繁二郎、福田平八郎、安井曾太郎安田靫彦ら一流画家による展覧会「清光会」を主催。妻・和子との間には、真行、茂樹、市三、美樹が生まれた。菊版全集所収の未定稿219*1には後藤のことが描かれている。

このほか「現代日本人名録 物故者編1901−2000」によると、

明治27年5月28日(上記と異なる)京都府岩滝町生まれ。京都絵画専門学校卒。学生時代、小出楢重と親交を結び、また武者小路実篤新しき村運動に参加。昭和2年上京、白樺派の作家達と交わり、のち座右宝刊行会を引き継ぎ主宰者となった。以後、美術、美術史、建築、考古学関係の書籍及び画集などの専門出版社として特異な存在となった。(略)戦後雑誌「座右宝」を創刊(19号で廃刊)。(略)

刊行会は『日本近代文学大事典』に立項されていないが、第六巻の「近代出版側面史」に大正14年7月「志賀直哉は座右宝刊行会を作った。(七月二日)」とある。また、昭和56年12月22日付読売新聞には、後藤茂樹社長の同刊行会が突然倒産した旨の記事がある。

生井知子先生ならもっとよく知っておられると思われる。私にはこれくらいで、ご勘弁を。

*1:新全集では補巻二の未定稿231。たいしたことは書かれていない。