神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

旅する巨人宮本常一が寄り道した聖戦技術協会


佐野眞一氏は『旅する巨人』(文藝春秋、平成8年11月)で、昭和20年7月に軍から宮本常一に対して、敗戦後の農村復興をにらんだアプローチがあり、宮本が三田の渋沢敬三に相談して、賛同を得たというエピソードについて記している。
ところが、昨年刊行された宮本の日記*1を見ると、事実関係はかなり異なるようだ。


昭和20年6月11日 8時すぎ三田へかへり先生のお目にかゝつてはなしをきく。聖戦技術協会に入るやうにすゝめられる。一応承諾する。陸軍の仕事。農村視察をするのだといふ。


昭和20年6月12日 先生が聖戦技術協会の亀井貫一郎氏と聯絡つけるまでこちらに居れとの事なので今日は知友訪問ときめ、(後略)


昭和20年6月13日 亀井氏との連絡がうまくつかない。今日は1日待機してゐよとの事である。アチツクでボンヤリしてゐる。(中略)昼すぎ先生よりデンワ。明日亀井氏と日銀であふことになつたといふ。


昭和20年6月14日 朝、かへる支度をして先生の自動車で日銀に行く。10時半亀井氏来る。農村実情についてはなす。是非軍務局佐藤大佐にあつてくれといふことになり、もう一度お邸にかへる。亀井氏は仲々能弁である。夜、亀井氏、佐藤氏お邸に来る。先生と4人で夕食。農村の実情について話す。10時をすぎる。明日陸軍省へ来てくれとのことである。もう1日のばす。


昭和20年6月15日 朝、田町まで歩いて電車にのる。市ヶ谷へ下りると亀井氏と一緒になる。陸軍省へゆく。ここでは佐藤氏甚だ忙しさうである。履歴書を出せといふので出す。林中佐としばらくはなし、昼すぎ、大久保巴町の聖戦技術協会に亀井氏をとひ、事情報告。


[凡例]註記 三田 東京三田の渋沢敬三邸。日本常民文化研究所。元の名称はアチック・ミューゼアム。宮本常一はここに昭和14-18年、24年から36年まで寄寓


これによれば、渋沢敬三の指示により、宮本は聖戦技術協会や軍部への協力をしたことになる。しかも、日銀(渋沢は当時日銀総裁)で亀井(聖戦技術協会理事長)にあっている。佐藤大佐とは、佐藤裕雄軍務局戦備課長だろうか。林中佐は不明。軍事オタのだれぞは知らないかしら?


敗戦で亀井と縁が切れたと思いきや、日記によれば、宮本は戦後も亀井との交流を続けている。


*既に、佐野氏が発表しているような気もするが、見当たらないので紹介します。

*1:宮本常一 写真・日記集成』別巻、毎日新聞社、2005年3月

 森鴎外に預けられた亀井貫一郎(その2)


鴎外の妹、小金井喜美子の『森鴎外の系族』(岩波文庫、2001年4月。底本:昭和18年12月大岡山書店)によると、



殿様の御親戚にそれはそれは立派な母子の方がいらっしゃいました。(中略)御主人は御結婚後お子さんが一人出来るとすぐにおなくなりで、十九で未亡人におなりでした。(中略)形見のお姫様を大切に育てておいでになりました。(中略)
お兄さん*1が河田さんへの話が罷んだと知れたものですから、今度はそこで貰いたいようなご様子も見えましたが、もうそんなお話はこりごりしたとお断りになったのでした。後に御同族から御養子が見えて、陸軍へお勤めになりましたが程無くおやめ、幾分投機がかった事を好まれた上、世の移り変りで大分御難儀の時もあったようでしたが、大勢あるお孫様の御長男の貫一郎さんが大層よいお出来で、今は社会大衆党の代議士になっていられます。全くそのお祖母あ様の御教育がよかったためでしょう。


森茉莉の語る亀井とは別人のようなほめられようである。

*1:森篤次郎