神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

朝倉文夫と三角寛

野依秀市全集』第2巻(実業之世界社、昭和41年9月)中の「朝倉文夫の巻」に、三角寛も出てきた。

私が初めて会ったのは昭和二十年ごろ、大分県人会の会合の席だったと思う。(略)
その後、「一夕君と飯を食いたいのだが、料理屋なんか嫌いだから、家へ来てもらおう」といって、特殊部落民の研究で文学博士になった三角寛君と私とが招ばれて、先生のお宅で夕食を御馳走になったことがある。


朝倉文夫の日記については、『郷土の先覚者シリーズ2 前野良沢朝倉文夫』(大分県教育委員会、昭和50年2月)で、執筆者の田村卓夫が「このような伝記を纏めるときの根本史料は、なんと云っても本人の日記だが、故人の日記がまだ未整理のため利用できなかったことが心残りである」と書いている。日記の現状はどうなっているのだろうか。ぜひ、読みたいものである。


なぜ、日記が読みたいのかと言うと、朝倉の交際範囲には、三角の他、今泉定助がいるし、谷崎潤一郎もそうだから。


今東光は『十二階崩壊』で谷崎の小田原時代の事として、「更に、貪慾な谷崎は朝倉文夫に彫刻の手ほどきを受けたりして、何に対しても少年のような好奇心を燃やした」と書いている。
また、潤一郎の弟、終平も、「回想の兄・潤一郎5 小田原時代」(『谷崎潤一郎全集』月報6、昭和42年4月)で「ここで兄は一時、塑像に凝っていました。自己流なのか、誰か先生に就いていたのかはわかりませんが、時々粘土で造ったものが、いつの間にか石膏になっていました。女の裸体や首などだったようです。−兄にはそんな余技(?)もあったのです」と振り返っている。


朝倉の日記があれば、こうした記述の確認ができるのだが・・・


追記:『と学会年鑑ORANGE』のあとがきで、山本弘がアクドい古書店に厳しい意見。
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