神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

親バカとしての岩波茂雄(その2)


その後半年以上進展は見られないが、翌年6月以降事態が動き出した。

昭和7年
6月11日 帰宅の旨を知らせると小林と小百合さんとで来た。京城のアベさん*1に彼女より手紙を出して、非常手段のやむなきを訴えたところ、それも致し方なからんと云つて来たので、小百合さんはその決心をしたところ、小林からその話をきいた幸田露伴がなほ温和手段をとることをすゝめたので、父さんにもう一度岩波氏に話して見てくれまいかと云ふのである。一両日中に岩波氏に話すと父さんが受けあつた。


6月13日[欄外ニ] 岩波さんに例の件を話した由、妻君に相談すると云ふことになつた。しゐて反対はしない。斯ういふことには当事者の意志を尊重すると云つて帰つた由、大笑ひ。


7月22日 小林と小百合さんの結婚を岩波さんで承知したことをしらせて来る。式は九月上旬。私たちがミッド・マンをしなければならないらしい。


さんざん反対した岩波茂雄が、突然容認するようになった理由はよくわからない。
出版創業者としては天才であった岩波であるが、娘の父親としては親バカであったようだ。
小林は『惜櫟荘主人』で次のように回想している。

この問題が表面に出てから一年近い間、先生と私との関係は前と余り変っていなかった。用事があれば会うし、冗談もいった。しかし結婚には先生一人承知しないといい、皆が結婚式に出ても自分は出ない、家族の出ることは禁じない、自分はそのとき旅行に出るという話であった。しかし八月になって、自分も結婚式に出るといい出した。私をよんで「今まで勝手にしろと思っていたが、それは改める気持になった。もし、君が賛成してくれるなら、自分が一切の費用をもって、披露をしたい」という話であった。
先生は昨日まで反対していた人のようでなく、大騒ぎをし出した。私にはモーニングを作ってくれた。
九月十日に東京会館で親類家族以外二十人くらいの人を招いて披露した。


最後に小林の名誉のためにも付言しておけば、野上の日記を読む限り、小島が小林について「茂雄の娘を孕ませて」(4月20日参照)というのは勘違いと思われる。

*1:当時京城帝国大学教授であった安倍能成と思われる。