神保町系オタオタ日記

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竹久夢二は『大日本カテイヨーチエン』(大日本家庭幼稚園)に絵を描いたか?


 家蔵の絵本により長田幹雄『夢二書簡2』(夢寺書坊、平成3年2月)409頁で長田が解けなかった謎が判明する。この謎は、大正12年7月29日付け竹内□子宛竹久夢二書簡の「竹内□子」への「人物注」に書かれている。

竹内□子 宛名の名前がわからない。封筒と中みとの相違のせいもあろうか、説が分れて決着を見ないままにおく。「カテー[ママ]ヨーチエン」は雑誌名で文末の御主人とともにそのオーナーであろうか。

 宛名の名前について封筒と中みとの相違というのは、次の画像を見られたい。

 確かに「竹内」に続く文字は、封筒と中みの文では違うようにも見える。しかし、結論から言うと「竹内彦子」である。冒頭に写真を挙げた『大日本カテイヨーチエン』*1の裏表紙に「大日本家庭幼稚園編画 編輯兼発行者竹内彦子」とあることで分かった。家蔵の同誌には発行所や発行年月日の記載はない*2。しかし、大日本家庭幼稚園が発行所ということになるのだろう。
 大日本家庭幼稚園については、大阪毎日新聞社編『婦人宝鑑:大正12年度』(大阪毎日新聞社大正12年3月)によれば、前文部次官田所美治夫人田所敬子を園長に、多数の名士夫人を理事とし、東京市本郷区弓町に設立された。保育項目として遊戯、談話、自由画、手技の4項を課し、絵本、玩具、手技材料等の保育材料と保育方法を講述する『母の栞』(母姉の読物)を月3回送るともある。幼児を預かる幼稚園ではなく、言わば通信制の幼稚園ということになる。『母の栞』が母親向けの通信であるのに対し、『大日本カテイヨーチエン』は児童向けの絵本として作成されたことになる。ただし、創立して間もなく関東大震災に遭遇したことになるので、何冊発行できただろうか。
 『昭和15年婦人年鑑』(東京聯合婦人会、昭和15年4月)の「婦人録」によると、田所敬子は、明治12年東京生まれ。広島市流川女子校卒、大日本婦人共愛会理事、愛婦評議員、聾教育振興会評議員、日本家庭協会参与、航空婦人会特会員である。国会デジコレで検索すると、関東大震災後は大日本家庭幼稚園協会名義で記載されている文献が複数ある。先行研究は無さそうである。
 前記書簡によると、夢二は長峰勇に「紙面の体裁さしゑ等につき私の意見」を述べたという。長峰大阪府立中央図書館国際児童文学館所蔵本*3や家蔵本(冒頭の写真の右側。サインは「イサム」)の表紙絵を描いている。佐世保市博物館島瀬美術センターのホームページ「長峰勇 – 佐世保市博物館島瀬美術センター」によると、長峰明治39年大分県生まれ、大正13年東京美術学校で岡田三郎助に師事している。
 夢二は自ら『大日本カテイヨーチエン』に絵を描くことはあっただろうか。今のところは、確認できていない。
参考:「貝や投書に沼った?山田種三郎と竹久夢二ー名雲書店目録に山田市蔵宛夢二書簡ー - 神保町系オタオタ日記
 

*1:「日本の古本屋」に古書古群洞が出品し売り切れた同書のタイトルは、『大日本家庭幼稚園』である。

*2:大阪府立中央図書館国際児童文学館OPACで発行所を精美堂としているが、精美堂は印刷所である。

*3:国際児童文学館所蔵本には、「絵画の説明」のほか、附録として「塗絵」(松田保彦)、「貼り絵」(田近利夫)が挟み込まれている。家蔵本には挟み込みなし。