
京都市歴史資料館の第2展示室で、黒川翠山の写真パネル展を観てきた。最近、翠山の写真を目にする機会が多く、京都市役所分庁舎、便利堂コロタイプギャラリー、京都文化博物館でも展示された。
翠山(明治15-昭和19)は、佐藤守弘「観光する写真家」*1によれば、京都生まれで1900年代のアマチュア写真家の代表例とされる。晩年に撮った写真は、芸術写真時代から雑誌『太陽』時代のリリシズムを残しながらも、記録的な写真が多く見られるという。
さて、晩年の翠山による写真がしばしば掲載された雑誌が手元にある。「『吉田忠商報 きもの』(吉田忠商店)にいつか出会えるかーー上田文「国画創作協会のパトロン吉田忠三郎」を読んでーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『吉田忠商報』(吉田忠商店)である。「残り少ない古本人生の中で入手する日が来るであろうか」としたが、『風船舎古書目録』によって早々に入手できたのであった。
入手したのは、第52号(昭和3年1月)、第63号(4年1月)、第120号(8年11月)、第121号(同年12月)、第122号(9年1月)、第124号(同年3月)、第125号(同年4月)、第126号(同年5月)、第131号(同年10月)、第136号(10年3月)、第138号(同年5月)、第139号(同年6月)、第140号(同年8月)、第142号(同年9月)、第?号(同年10月)、第146号(同年11月)、第148号(同年12月)、第149号(11年1月)、第159号(同年8月)の19冊。残念ながらもう少し後にならないと、今竹七郎デザインの表紙や著名な文人による作品*2が載らない。しかし、翠山の写真が載っているのは嬉しい。

昭和10年10月号の目次を挙げておく。翠山の《たそがれの晩秋》が掲載されている。これは、大塚活美氏による労作「写真家黒川翠山人と作品についてー京都学・歴彩館所蔵の資料を中心にー」『京都学・歴彩館紀要』第2号、令和元年8月の第1表「黒川翠山略年譜並びに作品」に記載がない。また、昭和11年1月号には「御題 黒川翠山氏撮影」が載っている。これは、歌会始の勅題「海上雲遠」に拠った作品で、大塚著の第3表「黒川翠山の勅題写真」に記載がない。
実は目次に翠山撮影と記された口絵写真は、これだけである。しかし、他の号に掲載された写真にも翠山の作品と思われるものがある。たとえば、昭和10年5月号に載る次の作品である。

これは、歴彩館歴史資料アーカイブ「黒川翠山撮影写真資料」(資料詳細)で見られる626番《平安神宮》と同じものである。翠山の次男黒川武男著の『未完成のしあわせ』(黒川武男、平成元年5月)に載る翠山の年譜では昭和12年に平安神宮の撮影をしたことになっているが、昭和10年まで遡ることになる。他の号に載る写真も見るべき人が見れば翠山と確認できるだろう。『吉田忠商報』のような「商報」は図書館では所蔵されないし、美術館でも所蔵されるのはごく僅かだろう。『吉田忠商報』がまとまって見つかれば科研費で学際的な研究がなされそうで、どこかに残っていないだろうか。
今年は、吉忠の創業150周年だという。京都新聞の本年1月1日号の池坊専好氏との初夢対談で吉田忠嗣社長は、「これまでの歩みを賀して、特段の記念事業を催すなどは考えておりません」と発言している。今回は、私が代わって150周年記念に『吉田忠商報』の重要性を話題にしてみた。
*1:『写真空間1:特集「写真家」とは誰か』(青弓社、平成20年3月)所収
*2:「『京都吉田忠商報 きもの』へ寄稿した作家・詩人達ー大阪高島屋の今竹七郎と吉忠の上田葆の時代ー - 神保町系オタオタ日記」参照